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<陰暦>江戸時代に暦はどうやって決めた?

yrk********さん

2016/5/3117:30:55

<陰暦>江戸時代に暦はどうやって決めた?

江戸時代にも毎年今後1年分の暦が作られていたそうです。
1年分の新月(月の1日)の日が判ればもちろん
作れるわけですが、ではどうやって新月の日を
予測したのでしょうか?

ネットで読んだところでは、昔から伝わる計算をして
予測した、と書いてあるものもありましたが、
具体的にどういう計算をするのでしょうか?

月など天体の運行の原理も正確に判っていなかった
江戸時代の知識はどのようなものなんでしょうか、
不思議でなりません。

私はネットで調べきれなかったのですが、適切なページ
をご存知でしたら教えていただければ感謝いたします。

補足アップ数時間でこんなにも多くの回答いただき、しかもそれぞれ深い知識
をお教えいただきありがとうございます。

ただ、私の疑問を再度明確にして質問させていただきます。
今12月だとします。月の満ち欠けの観測から来年1月1日の日は
予測できるかもしれません。それで次に(いま12月の時点で)、
2月1日はどうやって決めるのでしょう。
1月は29日で終わりですか。30日まであるのですか?
さらに3月以降12月まで何を根拠に(どのような計算で)
1日(月初め)を決めて行けるのでしょうか?
これが私の疑問、質問です。

よろしくお願いいたします。

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カテゴリマスター

編集あり2016/6/111:19:09

悪霊退治で有名な陰陽師の本来のお仕事は太陰太陽歴の暦を作ることです。暦を作ることは政治を担当する(農政を司る)と同じ意味を持っていたため安土桃山時代までは陰陽師が長官を勤める朝廷の陰陽寮で作られてましたが江戸時代になると幕府がその権利を剥奪して幕府の天文方が作るようになりました。天文方の長官は渋川家による世襲制で幕末まで難しい天文計算のを駆使した秘伝を使って作成してます。ただし幕府天文方は明治維新後、新政府に取り込まれ現在の東大の国立天文台に形を変えて残ってますのでその辺を調査すればわかるかもしれません。

当時でも長い観測経験から月の満ち欠けの周期は28.53日位というのがわかっていたのでこの定数と単純に足せば新月が何日後になるか簡単に計算できます。ただし定数には収差による誤差がありますから単純に足し算だけでは済まずに日々の観測結果から得られる補正値が加えられ精度をあげてます。この方法は現代でも月齢計算に使われる方法です。

  • 質問者

    yrk********さん

    2016/6/121:43:29

    なるほど、29.53の単純な足し算で予測してたのですか。
    目から鱗です。
    月の大・小の並びがランダムなもので、
    もっと実際のその時その時の月の動きを予測、反映
    している複雑な計算式かと思っていました。

    江戸時代、日々の観測結果をその年の暦に反映して、
    そのたびに暦を改版していたようにも思えませんので、
    その分は翌年の暦で帳尻を合わせる、というこだったん
    でしょうかね。

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質問した人からのコメント

2016/6/6 20:57:54

私の疑問にただ一人答えてくれた方です。
BAにお願いいたします。

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iik********さん

2016/6/211:59:00

すいません、どうも、いろいろ混乱しているようですが、「江戸時代」を馬鹿にしちゃいけないです。

要は、「計算式」みたいのは、「天文学」の方ででも聞いていただきたいんですが、知りたいのは、その仕組みですよね。

それは、実際の天体運行を観測して、「朔」というのを正確に予測することで、それが含む日を「朔日」つまりは「月の1日」にしています。

「朔」というのは、太陽と月が同じ方向に見える瞬間のことを言います。
見かけ上、月も太陽も1日の間にぐるっと1週回るように見えますが、その見える角度は、毎日、月が少しづつ反時計回りに太陽に追いつき追い越して、1か月で1周するように見えます。
ということは、大変ゆっくりとした動きながら、2つが全く同じ角度になるのは「一瞬」しかないということになります。

再度言いますが、それをどうやって計算するのかは、天文学の好きな人に聞いてください。
ここでは、そういう動きがある、という事を理解すれば、「暦」は理解できますから。
だって、今だって、どうやって日の出、日の入りとか計算してるか知らないでしょ?

まあ、ちと書いておくと、つまりは、太陽と月がほぼ同じ方向に見えるということは、ほとんど「新月」で、しかも同じ方向だから「日の出前の東の空」になんとか確認できる状態から、「日の入り後の西の空」に見えるように変わっていくのですが、その間に「朔」があるってことです、わかりますよね。

ともかく、その方法を、江戸時代の途中までは、はるか昔の中国での計算に基づいて、何日ごとにズレていく、みたいに計算していたんです。

ところが、これが800年で2日くらいズレてるのに気づいて、「徳川綱吉」つまり犬公方様の時代から、日本独自の「暦」を使い出したのが、何年か前に小説や映画になったのが『天地明察』でしたっけ?ってやつです。

ともかく、これで考えてみれば、いろいろわかると思いますが、「旧暦」では正確に「日にち」と「月の形」が「連動」するんです。

例えば、「日食」は必ず月の1日にしか起こりません。
だって「朔」による現象ですから、わかりますよね。

他にも、「15日」が必ず満月です。
だから、月の形で、今日が何日かがほぼわかる、だからこそ、カレンダーのない昔は、ほぼ全ての文明が「太陰暦」を使っていたんです。

ともかく、江戸時代の「天文」の知識は、普通に興味ない人にはとてもついていけるレベルじゃあないですよ。

例えば、太陽は正確に「円軌道」ではないですよね。
これは二四節季に影響するのわかりますよね、春分、秋分点と冬至、夏至の間の太陽の移動速度がそれぞれ違うってことです。
そうすると、これを多少ずらして均一に割った方がいいか、実際の運行道理にした方がいいか、なんてことを調整しています。

また、江戸時代は「不定時法」を取っていたのをご存知ですよね。
そうすると、天文予測などを「不定時法」で表記するか、現在の様な「定時法」で出すかとか、いろいろ調整しています。

また、「うるう月」の入れ方も、ちゃんと科学的に入れてるんですが、この辺が正確過ぎちゃって、「太陰太陽暦」の辛い所なんです。

グリニッジ標準時における「太陽太陰暦」なんて方向で集約されていれば、面白かったんですけれどねえ。

tjk********さん

2016/6/109:39:27

補足----疑問を再度明確にして質問の件。
今、年末の12月22日の冬至とします。

この日については関係者なら誰でも分かった。旧暦では「みずのえさる」の霜月11月12日です。冬至は子午線の北の基点であり1年の基点です。
冬至は24節気の基点であり暦法の基点でした。

そうすると来年1月1日の日は旧正月の元日が新月で「かのえさる」なので今の西暦の2/8日になります。

その366日後にはまた冬至になり「一陽来復」を祈ったのが太陽信仰の日本人です。
それに対して旧暦は仏教暦であり農事暦として併用したに過ぎない。
さて、その場合の例えば(いま12月の時点で)、

2月1日は次の新月です。西暦では3/9日になる。因みに1月は29日で終わりではなく30日まであります。
さらに3月以降12月まで24節気と言う節目で天空を24等分に割り振ってそれを基準にしました(厳密には8-16方位です)

そう述べても貴方は更に疑問が生まれて質問が尽きないかも知れませんが、それは補足ではなく、改めて別の設問を立てすべきです。

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kum********さん

2016/5/3119:55:26

いい質問です。
ここには江戸時代の長崎の通詞だった本木良永の訳した、「阿蘭陀地球図説」と云うのがあります。他にも「天地ニ球用法」とか「太陽距離暦解」など、天文学の本です。
初めて日本に地動説を紹介した本で、初めて訳したのが本木と云う通詞です。「太陽は常に静かに不動にして、地球は五つの星と共に太陽の周囲を廻り、恒星は不動ナリ、凡そ百年も前にコペルニクスと云う者あり・・・」
つまり阿蘭陀からの本には、こうした天体を観測した本なども幕府は輸入して江戸城の葵文庫に収められていたと言うべきでしょう。ですから月の運行の原理も分かって居なかったと言うのは、少し言いすぎではないでしょうか?わかって居ても下々の者には、必要最低限の事だけ伝えれば良いのが、徳川幕府の基本姿勢なんですから。寧ろ理解する者が少なかったというべきでしょう。

さて暦ですが、江戸幕府が最新の暦を発行したのは寛政十二年(1800)です。それ以前には日食や月食などが当たらない、宝暦年間に作られた暦を使っていたからです。
この寛政暦を作る為に選ばれたのが、天文方の高橋至時や、天文学者の麻田剛立、そしてその門人の間重富と云う人です。寛政九年には新たな寛政暦が作られ、この高橋至時31歳の時に門人となったのが、伊能忠敬でこの当時は未だ、子午線1度の距離が不明の為に、正確な地図の測量が出来なかったのです。しかし後に蝦夷に出かけてこの子午線1度の距離を確認すると、やっと日本全図の地図の作成にと向かう訳で、結構当時の和算も凄かったのですよ。伊能忠敬が用いたのが最上流の和算で、sin cain tan を使っていたんですね。この時既に今で言う3次方程式から、4次方程式を解く程の問題も出されています。
手許にその問題、ありますよ?江戸時代の和算の問題ですけど、やって見ます?

話は横道にそれてしまいましたが、伊能忠敬が住んでいた本所深川の黒江町の自宅を基準に、東北や日本海沿岸を歩いて新潟の柏崎まで、そして長野の善光寺などで測量するのですが、持って言った機材も凄い物です。幕府天文方よりも立派だったみたいで、何せ千葉県の佐原にある伊能家の資産は三万両。集めた蔵書は五千冊といわれています。
子午線の上を決まった時間に通過する星を測る望遠鏡の子午線儀、方位盤は元より星の位置で緯度や経度を測るわけですから、伊能忠敬も好奇心旺盛な人だったようです。

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AirBorneさん

2016/5/3118:47:51

天文や暦、数学の専門ではありませんけど、時計好きの知識として。

日本だと、中国からもたらされた暦、宣明暦が平安時代初期に用いられ、長い期間に渡り(実に800年以上)使われてきました(つまり、考え方や、天文観察の技術は中国から持たらされているということですね、暦そのものは、宣明暦よりも古い暦が、日本に伝えられています)。

でも、天文学、観察技術の向上にともない、段々と暦と実際の季節が、誤差によりズレてきていることは、分かっていたそうです。
それと、中国と日本では、そもそも地理的な差異もあり、中国における技術や考え方をそのまま、日本で使い続けることのムリも気がついていた。

日本の暦は、朝廷の陰陽寮が長い事仕切っていましたが(実際は、天文観測の技術、暦を作る技術は、外部に流出をしているから、独自の考え方もされ、地方には独自の暦も登場します)、江戸時代に入り、徳川綱吉が将軍になる辺りで、前述のとおり、800年以上も昔に作られた、宣明暦が時代遅れであり、その誤差と問題は指摘をされいた様です。

そこで、幕府が主導して(これも、朝廷から、幕府へのある種の権力移行と言えますね)渋川春海が貞享暦を完成させます。800年ぶりの暦法改訂です。

貞享暦を完成させるまでの紆余曲折は、「天地明察」という映画にもなっています。

目で見える範囲であれば、天体観測をする技術はありましたし(道具もあります)、計算技術に冠しては、日本は、「和算」という独自の数学体系も持っていました(鎖国をしており、広く世界的に和算の、その業績が発表されて知れ渡ることはありませんでしたけど、西洋の数学とは異なる体系ながらも、決して劣っていた訳では無いことが、判明してます)。

一方で、中国では、古い遺構に天文台が見られるなど古くから天文観察がされてきていることが分かっています。宣明暦もそういう技術の大成ですね。
また、北宋の時代には、天体運行すらもシミュレートする、巨大な天文時計が制作をされているので、この様な技術は、長年の中国との付き合いの中で、各年代ごとに日本に伝わってきた、そして、日本でもさらに独自にブラッシュアップしていたと思われます、だからこそ、日本の算術と天体観測技術により、日本独自で、日本に適した貞享暦が作れたと。
(ちなみに、この北宋時代の天文時計は、長野県・諏訪の時計の博物館、「儀象堂」に再現されて動いているのが見れます)

また、天体観測や暦を作成する技術は、徐々に陰陽寮の秘技から一般に知れ渡り、前述の通り地方暦を生み出すにいたります(もっぱら、農業に適用する、農業暦と言えるでしょう、日本は、東西南北に地味に長い国ですから、地域での季節のズレもありますから)
各地に、地方暦がありますが、例えば、会津には会津暦がありましたが、藩校の日新館は、天文台も備えていた学校です(藩校では、唯一では)。

もちろん、その時々での、当時の技術では知り得ないこともあるから、誤差や誤りも生じることになる....そういうことも分かっているからこそ、貞享暦の採用以降も、宝暦暦、寛政暦、 天保暦と度々、江戸時代に、暦は改訂をされています。

西洋でも、暦と季節のズレが生じる一方で、天文観察の技術向上にともない、ユリウス暦から、より誤差の少ない、グレゴリオ暦への改訂という出来事がありますよね。
この改訂とは、関係無く、和暦が作られて、改訂をされていることも、特筆するべきことだと思います。

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mug********さん

2016/5/3118:07:09

太陰暦は月の満ち欠けで、新月から新月(あるいは満月から満月までの朔望月)の周期が平均29.5306太陽日だということは解っていたと思います。それで1ヶ月を大の月(30日)と小の月(29日)適宜組み合わせていたのです。しかしこれだと実際の天体の動き(季節)との誤差(約11日)が生じるので二十四節気に合わせるために19年に7度の割で閏月を入れて調整していたのです。

江戸時代中期までは中国から伝わった宣明暦を使用していましたが、天文学の導入により、渋川春海が改暦して貞享暦を作りました。その後の改暦ではわずかな修正しかしていないので江戸時代末まで貞享暦を基本にした暦を使用していたようです。

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