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寛永通宝は、鉄の寛永通宝のほうが多いのですか。 初めは銅銭だったけれど、鉄銭...

unk********さん

2016/9/1711:00:19

寛永通宝は、鉄の寛永通宝のほうが多いのですか。
初めは銅銭だったけれど、鉄銭が鋳造されるようになりますが、鉄銭がメインになるわけですか。

江戸中期以降は、小判1枚に対して交換比率が6500文から6700文だったようですが、この文は鉄銭を指すのですか。
幕末には1両に対して、10000文を超えるのですね。

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kur********さん

編集あり2016/9/1718:52:42

江戸時代中期から幕末までの銭相場は御指摘通りです。しかし、これはあくまで流動的な民間変動相場であり、また地方により銭相場は異なっていたので、幕府が元禄十三年(1700)に定めた金一両=銀六十匁=銭四貫文の公定固定相場ではありません。

寛永通寶鉄一文銭は元文四年(1739)に初めて登場しました。江戸の十万坪・小梅・押上、仙台の石巻、摂津国加島、紀伊国和歌山など各地の銭座でいっせいに鉄一文銭が鋳造され、明和二年(1765 )には江戸の亀戸の銭座でも鉄一文銭が鋳られるようになり、地方における新規鋳銭も鉄銭一辺倒になっていきました。明和四年には真鍮四文銭が新定され、万延元年(1860)にはこれも鉄銭になる一方、天保六年(1865)には天保通寶百文銭を、文久三年(1863)には文久永寶四文銅銭を新定するなど、幕府の銭貨対策も支離滅裂となって幕末を迎えました。この間も、寛永通寶一文銭はとにかく続鋳され、最後まで銭貨の中心的存在でした。

※琉球で信用度があり広く流通していた寛永通寶鉄一文銭と銅一文銭は同じ価値でしたが、文久元年(1861)に、銅一文銭の価値が急激に上昇し、鉄一文銭の2倍になり、7年後の明治元年九月には銅一文銭が鉄銭の三十二文と言うふうに価値が変動し、鉄銭がほとんど通用の価値を失ったと言います。

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ベストアンサー以外の回答

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for********さん

2016/9/1711:10:20

鉄銭が出た当初は、銅銭も鉄銭も1文銭は同じ1文でした。
しかし、文久ころから、銅銭に価値がつくようになりました。
具体的には、鉄銭1枚=1文に対して、銅銭1枚=2~4文となったのです。
さらに、慶応、明治となるにつれてこの差は顕著となり、最終的には、銅銭1枚=鉄銭16枚の相場となりました。
金1両=銭10000文は、鉄銭での相場です。(銅銭ならその10分の1くらい)
このあたりの変遷については、下のサイトが参考になります。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J076.htm

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