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そもそも真田幸村は大阪の陣で豊臣方についたのは何故ですか?関ヶ原の時はどちら...

t27********さん

2016/10/1023:26:04

そもそも真田幸村は大阪の陣で豊臣方についたのは何故ですか?関ヶ原の時はどちらが勝つかわからないから、親兄弟別れて戦うというのは正しかったと思います。 しかし、大阪の陣の時は天下は既に徳川の物になっているのは明白で、実際、豊臣方についたのは現状で冷や飯を食っていた長曽我部盛親や後藤基次等の一発逆転を狙った浪人達くらいでした。しかし、幸村の場合は豊臣方についたら兄の信之に迷惑がかかるのは明らかで、真田家の事を考えるなら九度山に留まるか徳川方に参戦するべきだったはずです。実際にこれが原因かはわからないけど真田家は二代目秀忠の時に冷遇されているはずです。ドラマでは秀吉に可愛がられた恩義があるみたいでしたが、実際には幸村は豊臣への人質だったので、秀吉への面識や忠義はそれほどなかった気がします。結果的に日ノ本一の侍と言われましたが、本当は時流の読めない愚将だったのではないのですか?

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glo********さん

2016/10/1201:46:40

結果論として言えば確かに豊臣方に勝ち目はなかったでしょうが、両軍の兵員の差は1:2程度ですからそのぐらいの戦力差をひっくり返して勝利した例は決して少なくありません。
当時の幸村は48歳でこれは今の基準ならまだまだ若いですが、当時の基準なら隠居していてもおかしくない年齢です。
おそらく「老い先短い身ならば最後に一花咲かせたい。それで華々しく戦死してもこのまま朽ち果てていくよりはマシ」という意識があったのでしょうね。

結果論として言えば、幸村は「英雄」となり何百年経っても語り継がれているのですから正しい選択だったと言えるかもしれません。

質問した人からのコメント

2016/10/15 22:35:17

確かに結果論ですが大阪の陣があったから幸村は歴史に名を残せたのでしょうね

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dsd********さん

2016/10/1200:49:35

武士として、もう一花咲かしたかったのでしょうね。
豊臣方にも勝ち目はゼロではなかったのは事実ですが、
それは冬の陣の話しで、夏の陣ともなるともうどうにもならないと覚悟してたでしょう。
仮に家康を討ち取ってたとしても、秀忠と幕閣がまだいるので、勝ち目はないでしょう。

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2016/10/1200:41:40

大坂方の負けは決まっていたというのは結果論ですね。

戦国の時代、小が大を喰らう戦さなど幾つもありました。有名なのは織田信長と今川義元の桶狭間の合戦ですが、他に毛利元就と陶晴賢の厳島の合戦、松平家康と今川氏真の戦った一宮の後詰、徳川家康と北条氏政の天正壬午の乱などもありますし、徳川家康と豊臣秀吉の戦った小牧長久手の合戦もあります。真田昌幸と徳川家康の戦った、第一次上田合戦、第二次上田合戦もそういう中に入るでしょう。

信繁は勝つつもりで居たと思いますよ。上田城の比ではない堅城大坂城を得て、城には豊臣秀吉の忘れ形見である豊臣秀頼が居る。囲む敵軍の中にはかつて豊臣に恩を受けた大名がたくさん居る訳ですし。

早い話が、大坂夏の陣で信繁が家康の首を上げていたら、戦局は全然変わっていたと思います。もしかしたら、三百年続いていたのは豊臣政権だったかもしれません。

いや、歴史にイフはありませんが。

the********さん

2016/10/1121:16:33

頭の悪い人間なら、大人しくしてたでしょうね。

豊臣が滅び、家康が死ねば、いよいよ秀忠の時代。
不穏分子は次々に、容赦なく取り潰されます。
福島正則は、城を勝手に直しただけで取り潰し。
そんな有り様を見た浅野家や兄・信之はどう思いますか?
信之はともかく、浅野家は、保護を取り止め、無視するでしょうね。
信之も迂闊に、仕送りを増やせないでしょうし、遅かれ早かれ、秀忠本人すら知らないうちに、世の中に見殺しにされるでしょうね。

いつまでも生活保護を受けられるわけじゃないと思うから、一発逆転にかけた。
自分にも嫁や子供がいるんだから。
兄に迷惑かかるだろうが、愛憎両方あるだろうし、それで取り潰されるくらいなら、最初から潰される運命だろうし。

ore********さん

2016/10/1023:51:09

どちらかというと最後の戦になるから自分の力を試したいし、戦いで死ぬことの方が本望だったのでしょう。だてに戦大好き昌幸の血を色濃く引き継いでる訳ではありませんね。それに迷惑をかけるどうこうもうこの頃には知ったこっちゃないと思ってたんじゃないですかね?もしくは兄を信じて「私が豊臣についても家を存続させてくれるだろう」とでも思っていたんじゃないですかねぇ

joy********さん

2016/10/1023:48:45

九度山の暮らしは本当につらかったようですよ。まがりなりにも政権中央の近くで働いていた武士ですから、何もすることがない田舎暮らしはつらいでしょう。そして、徳川から赦免される希望は完全になくなっていたわけですから、豊臣方の誘いは渡りに船でしょう。
人質だったとは言っても当時は当たり前の慣習ですし、抜擢採用されています。重臣の大谷吉継の娘を妻にしていることを忘れてはいけませんよ。19000石(推定)の豊臣大名だったのです。
また、信之は冷遇されていません。松代への転封がそのように言われるようですが、松代は信濃の要衝地です。むしろ信頼されていたとみるべきです。

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