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朝貢貿易と勘合貿易は別物で、行われた順番は朝貢→勘合→日明

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ID非公開さん

2016/10/1518:58:32

朝貢貿易と勘合貿易は別物で、行われた順番は朝貢→勘合→日明

という形であってますか?
また、勘合貿易の際の渡航費と滞在費も明が負担したのですか?
また、抽分銭の際の勘合線の経営者とは明側の人間ですか?

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par********さん

2016/10/2121:17:45

勘合貿易は朝貢貿易の一環です。また室町時代の勘合貿易のことを日明貿易と言います。

中国を中心とした朝貢貿易は、「中華」(世界の中心で栄えている国の意味)たる中国王朝が、周辺の「蛮夷」に対して恩恵を施す、という理念によって成り立っている国家間の関係であるとともに、貿易の一形態でもあり、朝貢品と下賜品の交換という経済行為でもありました。

明の成立以前の北方民族の征服王朝である遼、金、元では、従来の中華意識による朝貢貿易よりも、自由な交易が行われ、内陸のルートや海上ルートでのイタリア商人やムスリム商人の活動に見られるように、世界的な規模での交易が展開された時代でした。

しかし漢民族の明王朝の成立によって、再び権威主義的な朝貢貿易が復活します。これには外国との貿易によって沿岸地方の都市が発展し、皇帝の統制に服さなくなることを防ぐことと、当時活発だった倭寇の活動を抑えることが狙いでした。そのため周辺諸国に勘合符を与え、それを所持する船のみに交易を認める勘合貿易が始まります。

この朝貢貿易は、日本に莫大な利益をもたらしました。当時の貿易船は千石積み(100トン)前後の大きさであったが、従属国から宗主国への朝貢であるから、関税はなく、義満の使節やその随行者である商人の滞在費など、一切の費用は、明朝の負担になります。また朝貢品にたいしては、賜与という名目で価格以上の代価が支払われたうえ、携えてきた物資の交易すらみとめられたから、一回の渡行で、元本の五,六倍の利益があったとされています。

抽分銭とは、室町時代の輸入税のこといい、日明貿易の際に使用されました。

日明貿易の以前にも、日本では天龍寺船が元から帰国後に天龍寺に対して利益額に関係なく現銭5000貫を納入したという先例があります。

勘合船の経営者は明側の人間ではなく室町幕府や細川氏・大内氏などの守護大名、寺院などです。

彼らは勘合船の帰港後に輸入品の売値総額(日本国内の価格に換算した総額)の1割を抽分銭としてその船に便乗した貿易商から徴収していました。当時の1回の勘合船が輸入した品物の総額は莫大な金額になったことから、抽分銭のもたらす金額も大きく、室町幕府などにとっては大きな臨時収入となりました。

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