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キリスト教聖書(リビングバイブル) マタイ12:31−32 「ただ一つ、聖霊を...

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ID非公開さん

2016/11/1818:23:56

キリスト教聖書(リビングバイブル) マタイ12:31−32
「ただ一つ、聖霊を汚すことだけは例外です。この罪ばかりは、いつの世でも絶対に赦されることはありません。


とありますが、聖霊を汚すとは具体的にどのようなことでしょうか?聖日礼拝を妨げるとか?

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bus********さん

2016/11/1905:01:07

コチラをどうぞ。

「聖霊を冒涜する」とは①
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n221211

「聖霊を冒涜する」とは②
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n221212

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yoe********さん

2016/11/1821:01:37

難しい句ですよね。
いろんな解釈が考えられると思いますが,
「カトリック教会の公共要理」による解説では,
死の瞬間,すべての人に与えられる天国への招きを敢えて拒絶すること…
と定義しています。
doltotiさんの仰る解釈も成り立つと思いますし,
プロテスタントの方たちは,宗派毎に解釈を持ってらっしゃるでしょうが,
とにかく,これがカトリック教会の公式な解釈と言えます。

dol********さん

2016/11/1820:05:03

「人の子らには、その犯す罪も神を汚す言葉も【すべてが】ゆるされる。しかし、聖霊を汚す者はいつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。

こういう「All, but」という例外規定は、旧約聖書によく見られる言い回しだよね。例えば「あなたは園の【すべての木】から取って食べて良い。しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならず、そのときあなたは死ぬ」。

だから、文章を「そこだけの断片」で取り出してくるのではなく、一つ一つの文脈の中で読むんだよ。

---

イエスは「神の国が近づいた」と宣教した。その証拠に、神の国に属すことのできない悪霊が次々に追い払われているではないかと。

ところが、律法学者たちは「悪霊を追い払えるのは、悪霊の首領の力を借りているからだろ」と言った。つまり、イエス自身が悪霊に取り憑かれているからだ、と言ったわけだ。

神の恵みを「災い」と呼ぶ。真理を見ても「偽り」と吐き捨てる。義を見ても「不義」と唾吐く。光を見ても「闇」と目をつぶる。そして、聖霊の力を「悪霊の力」と呼ぶ。これを聖霊を汚す者と言う。悪魔 devil の語源は、ギリシア語の diabolos「中傷する者」だからね。

中傷するだけならまだいい。そこに道があるのに、目をつむって道から逸れていくなら、足をすべらして谷底へ落ちるだろう。だから「聖霊を汚す者は赦されない」。「道から逸れる、的を外す」ことをヘブライ語で hata、ギリシア語で hamartia と言い、通常は「罪」と訳される。

これは非信者に限ったことではないよ。ある人に働いている聖霊の力を「悪霊だ」と言い、こいつは地獄に落ちると吐き捨てる「クリスチャン」は少なくない。

yak********さん

2016/11/1819:43:29

頌主

私は、新共同訳しか持っていないので、引用はすべて新共同訳から行ないますので、ご注意ください。

さて、このマタイ12:31~32の文脈の前後をお読みください。

主イエスさまが、”悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人”を癒されます。(12:22~)

これに対し、ファリサイ派の人々が、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と主イエスさまを非難します。(12:24)

それに対して、主イエスさまは、「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」反論されます。(12:27~)

主イエスさまは「神の霊で悪霊を追い出している」わけで、つまり、癒しの根拠・権威は”神の霊”そのものということです。(12:28)

その主イエスさまがお用いになる神の霊=聖霊を冒涜することは、日々、人間が犯す罪や冒涜(=悔い改めが可能な罪)とは異なって、決して赦されるものではないということです。

もちろん、主イエスさまは、受肉されて、いと低きものに謙(へりくだ)ったお方ですから、これに続けて、「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(12:32)と仰ります。

つまり、父なる神さまがこの世に降された独り子は、受肉し、弱く痛みを伴う人間として、十字架の死という最大の辱め・冒涜(謙卑のキリスト)を受けて、世の救いとなりました。
この謙卑のキリストの救い、つまり、”木に高く挙げられる”ことこそが、主イエスさまにとっての御栄光、つまり、天に”高く挙げられる”(高挙のキリスト)ことなのです。
十字架のキリスト=栄光のキリストということなのです。

ですから、十字架のキリストへの辱め・冒涜は、主の贖罪として相応しいことですが、神さまが降された聖霊を冒涜することは、神さまご自身への冒涜に他ならず赦されないということです。


在主

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