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永楽帝が国定教科書を作った理由は何ですか?

mus********さん

2016/12/2515:54:04

永楽帝が国定教科書を作った理由は何ですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

ナイト67さん

2016/12/2813:30:57

儒学の四書五経という根本テキストを朱子学観点から解釈した四書大全・五経大全・性理大全を指して国定教科書と表現されているのだと思いますが、永楽大典も含めたこれらの編纂・出版事業を永楽帝が行った理由は大きく2つあると思います。
1.明が異民族王朝を追い払って成立した漢族王朝であったから
2.永楽帝自身が文化的な功績を欲していたから

明は異民族王朝であった元ウルスの後を承けて建った漢族の王朝ですが、宋末~元代に掛けてそれまでの政治・生活の規範であった儒教・儒学は廃れかけていました。
礼記や大学にあるように儒教には修身斉家治国平天下を目指す教えという政治観があります。
まず自分の行いを正し、家庭を整え、国を治める事によって天下を泰平にする事が出来るという考え方ですが、これは乱世にはおよそ不向きな思想でもあったわけです。
西晋時代~東晋代に掛けても儒教が廃れ老荘思想が流行した事がありましたが、元末~明初にも同じことが起ったわけですね。
平和な時代に秩序をもたらす事が王朝にとっての利益となっていた側面のある儒教は異民族王朝でありあまり漢化しなかった元代には顧みられることが無かったのですが、新興の漢族王朝が安定を求めた時には必要とされたという事です。
2.で触れますが永楽帝は「事実上の簒奪」によって皇位に就いていたのですから、体制・政治制度の安定は最優先事項でもありましたので、こうした儒教経典の編纂と出版・配布に尽力したわけです。

2の理由ですが、そもそも永楽帝は「靖難の変」によって皇帝となった人物です。
燕王として北平(北京)に封じられ北元への抑えとしての軍事能力を期待されていたのですが、その軍事能力によって建文帝を帝位から引きずり落とし取って代わった人であったわけです。
双方に言い分はあったのですが、これはやはり簒奪・クーデターであり当時からそうした批判は受けていました。
特に正統論を説く朱子学上から見れば永楽帝は完全な批判対象でもあり、史書にもそうした評価が残る事は確実という状況であったわけです。
こうした史官・知識人=儒学者を懐柔する方法として、文化事業を行う必然があったという事です。
四書五経の注釈を行い大量に出版する文化事業を行う事で、そうした批判を躱そうとしたという事ですね。
永楽帝は二代皇帝としての建文帝の事績を削ろうとした事もありました。
建文帝を「居なかったこと」にしようとしたのですが、これなどは史書に簒奪者として残り後世に伝わる事を永楽帝がどれほど恐れたかの証だと思います。
文化事業を多く行い儒教を保護する事で、永楽帝はこうした不名誉を覆そうとしたわけです。

永楽帝の治世では「鄭和の大航海」も行われているのですが、これもそうした名誉獲得の為であったと思います。
中華王朝が国策として海外に出ていく事は非常に稀な事なのですが、この大航海の目的は「多くの国に朝貢を促すため」と言われています。
海外の国、遠い国が中華王朝に朝貢したり使節を派遣してくる事は、それだけ皇帝の徳が高く王朝の名誉でもあると中華では考えるのですが、永楽帝もそうした名誉を欲していたのでしょう。
「文」の功績も永楽帝が後世の弾劾を恐れた故に行った善行という側面はあったと思います。

質問した人からのコメント

2016/12/31 08:23:05

詳しい回答ありがとうございました。

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