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仮に全人類哲学的ゾンビ説というのが正しいとして

men********さん

2016/12/3116:41:02

仮に全人類哲学的ゾンビ説というのが正しいとして

意識と言うのは錯覚である、と言うとき
その錯覚、というのは意識という情報処理方法に対する解釈の仕方が間違っている、という意味と
意識を感じてる自分という錯覚がある、みたいな2つの意味があるような気がするんですが
後者だと錯覚を感じてる自分がいるという矛盾が生まれますよね?
でも前者だと、意識を感じてる自分に対しての反証になってない気がします
普通に例えばスーザンブラックモアさんとかがいうところの錯覚ってどういう意味で使ってるんでしょうか?

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cj4********さん

2017/1/111:09:27

錯覚よりも「幻想」と表現されることが多い。


E・モーセラや前野隆司の「受動意識仮説」とほぼおなじ。ヒトの意思決定のほとんどは無意識下でなされ、意識はそれを受動的に観察するだけで、その情報を「エピソード(イベント)」として記憶するためのもの。記憶がないと個体の連続性を保てないのでね。

つまり、意思決定の主体は意識ではない。意識は幻想にすぎない。

当然ながら、(あると思いこんでいるだけで)ヒトに自由意志もクオリアもなく、ヒトは外部からの刺激に反応するだけの「哲学的ゾンビ」に他ならない。と、まあそんな話。


http://www.excite.co.jp/News/odd/Karapaia_52201267.html


だが、運動準備電位を発見したB・リベットは、意思決定の大半は無意識下でなされるとしても、意識(自由意志)による「ブレーキ」はかけられると考えていた。

おなじように、無意識の意思決定が意識より「7秒」先行することを発見したJ・ヘインズも、別の実験により、意識が無意識のそれを覆せると報告している。つまり、自由意志はあると。

ただし、その間、わずか「0.2秒」だが。



参考までに。。。

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ton********さん

2017/1/111:32:26

答えはシンプルです。

「全人類哲学的ゾンビ説」ということは自分もゾンビですね。ということは解釈云々ではなく、錯覚を感じている自分もいない(定義上)よって後者です。


尤も、私はこの種の話題でいつも思うのは、言語であるいは物理的に扱えない/扱わない/扱う意味がない.... ということと自分や意識なるものが「存在しない」との間にはギャップがあるということです。質問者さんもそう思うからこの質問に至ってるんじゃないですか。 在るといってもデカルト的にあるというのではなくクオリアの束でしかないかもしれませんけど。

bub********さん

2017/1/109:10:34

後者です。

前者はいうなれば、サールのような哲学者の立場。

スーザンブラックモアのような、生物学の哲学に関わるひとで、しかも英国出身(経験論)の科学者ともなれば、当然、意識なんて気のせいだ!あると感じるのは錯覚だ!という物理主義のスタンスになる。


だが他にもあなたに教えてあげたいことがある。

さて、そもそも全人類哲学的ゾンビ説とは何のことか。言わんとしていることはわかる。だがそれは唯我論と呼ぶべきものではないだろうか。すると、それは、本来の哲学的ゾンビの用法とは異なる意味不明な文章となる。くわえて、この唯我論的な何かを前提としているわけだけれども、これを前提としている理由もわからない。

巷に流布している哲学的ゾンビってやつは、本来の意味ではなく、こころの哲学においては、そのような用法をすることはない。

本来の意味とはチャーマーズの用法だ。あくまでも物理主義を批判する文脈で用いられるもので、その真意は、意識はなんらかの意味のある確かな存在であり、決して錯覚などではないということを直観するための仮設である。このときの仮設とは、科学的仮設とは違う意味の仮設。間違いを明らかにするためにもうける、仮の設定という意味だ。

kai********さん

2017/1/102:04:34

スーザンブラックモアさんの錯覚がなにか知りませんが、生物は自分に都合よく事実を解釈するのであり、錯覚はしていません。つまり、誤った解釈(錯覚)をしているのではなく、勝手な解釈(創造、捏造、信仰など)をしているのです。何故?生存するために。デカルトは「われ思う・コギト」を絶対に疑うことはできないと「信じた」のです。
「だってさー意識は錯覚だという意識は錯覚だという意識は錯覚だってずっと終わらなくなっちゃうじゃん」ご安心くださいい。必ずあなた自身が「真実」を捏造しあなたを安心させますので。

twe********さん

2016/12/3120:45:38

後者でいーんとちゃうの?

で、矛盾なんか気にしてどーすんの?(・o・)

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ton********さん

2016/12/3117:17:38

哲学ゾンビは、独我論の言うところですネ?

独我論では言います、
「私は心を持っている、しかし他人が心を持っていることは分からない。私たちが他人が心を持っていると思っているのは、私の心を他人に「投影」しているにすぎない。だから、この世界に心を持っている存在は私一人だけで、他人はみんなゾンビである」と。

この論理のどこが間違っているかというと、私たちの実感に反するからです。
たとえば、あなたの両親や兄弟をゾンビと思いますか?
見知らぬ人間ならともかく、親しい人間をゾンビと思う人はいません。

あなたが他人の心が分からなければ、他人もあなたの心が分かりません。
あなたが他人をゾンビと言えば、他人もあなたをゾンビだと思うでしょう。
お互い様です。
そしてあなたが自分をゾンビと思わなければ、他人もゾンビと思ってはいけません。
ゾンビなど、どこにもいません。

あなたは「意識を感じている自分という錯覚」があるのではなく、意識を感じているという直観を持っています。
それを疑うことはできません。
デカルトが「われ思う・コギト」を絶対に疑うことはできない、と言ったのと同じです。

スーザンブラックモアさんがそれを錯覚と言っているとしたら、デカルトを知らない証拠です。

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