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松平容保と新選組にはどのような関係があるのでしょうか?

isk********さん

2017/1/110:21:47

松平容保と新選組にはどのような関係があるのでしょうか?

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fun********さん

2017/1/201:45:59

清河八郎の浪士組本体から別れて京都へ残留した、芹澤鴨・近藤勇らを幕府から「お預かり」することになる京都守護職・松平容保は、「朝廷の御差綺い(おさしいろい、この場合は「攘夷をせよという督促」)を拒みては、尊王の大儀に悖り、外夷の屈辱を受けては国威を墜すべし、しか大儀に悖り国威を墜さば、幕府の権威、何れの所に振るうを得べき」という考えのもと、朝廷・幕府・諸藩が一体となる新しい強力国家体制樹立に腐心する一方、市中に跋扈する西国浪士の対策に苦慮し、彼らが騒ぐのは意見が上に通らないためであると、「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出し、幕府へも建議しています(言路洞開)。
容保はさらに、文久三年二月五日に「近々摂海に外国船が襲来するという噂があり、それらを武田耕雲斎に附属させ、自分の指揮下に置いて攘夷の先鋒にしたい」という考えを将軍後見職・一橋慶喜と政治総裁・松平春嶽に建言し、同月十四日には、在京幕府要職が、「脱藩者は帰藩させ、主のない者は幕府が扶助する」という方針を決定。
そして三月十日、 幕府老中から容保に対し、「京都にいる浪士どもには尽忠報国の志のある者がいるように聞くが、これらの者には一方の御固め(おそらく摂海の警備)も命じられようから、会津藩が一手にまとめて差配いたすべきこと」という達し文が下される。

この三月十日に、清河率いる浪士組から分離する決意をした近藤が、芹澤一派とともに、

「《外夷(が)切迫》して世上が混乱していますので、(我々は)恐れながら上京の上、天朝を御守護いたすことはもちろん、大樹公(将軍)の御警衛をし、《神州之穢レヲ清浄》せんが為、(将軍)御下向後、《勅ニ基キ攘夷》をするのが《同志一統之宿願》でございます。ところが、大樹公の御下向がないのに一統に東帰を命じられております。東帰の上、《直様斬夷》いたすことは、大悦至極にございますが、(将軍下向前の)退去の件は、一統も耐えられません。、何卒、大樹公御下向まで御警衛いたしたく、志願いたします。恐れながら、これ迄も密かに御城外の夜警をいたしたく、《寸志之御警衛》をいたしておりました。愚意を御酌取りになり、御下向となるまで、銘々の退去の延引を御許 容になれば、ありがたいことでございます。元より毛塵の私供が申上げることも恐入りますが、これ迄の御厚命は心から有がたく存じておりますので、捨命報国の心願をいたします。もし、退去の延引がお聞き届けいただけなければ、また、身を隠して浪々の身となり、《天朝并ニ大樹公之奉御守護攘夷》をいたします。なにとぞ、愚意の趣きを御取次いただくよう、連盟をもってお願いいたします」

という嘆願書を提出。
これが聞き入れられて、十二日夜に会津公が彼らを幕府から「御預かり」する(この後さらに、殿内義雄、家里次郎らが京へ残留したい浪士を募り、会津藩の差配を受ける)。
つまり、容保と近藤らの、公武合体および攘夷という考えが一致したたということ。
そして会津藩は、近藤らが宿舎としていた壬生の屯所を、西国浪士を糾合するための守護職の末端組織である浪士局とし、その取り纏めを近藤と芹澤が担った。
だから近藤や芹澤は、隊長の他に局長とも呼ばれるんですよ(以上、宮地正人著『幕末維新変革史 上巻』、澁澤栄一著『徳川慶喜公伝 2』、『会津藩庁記録 一 』、『会津松平家譜』)。

ただ一方には、幕府批判を伴った朝廷工作やテロを行い公武合体をあくまで阻害しようとする、長州・土佐の尊攘激派および浪士がいる。
公武合体を補助しようとする新選組にとって、これらは不逞の輩・無法者以外の何者でもない。
だから、市中見廻りをしてこれらを取り締まり、抵抗すれば斬る。
これは、公武合体という政治目標を達成するための手段なのだけれども、国是が攘夷と決定するまでの仮の措置であるというのが、近藤らの認識。

近藤は幕府に対して盛んに意見書を提出しており、とりわけ元治元年五月三日には、自分たちは「尽忠報国の志士」として「皇命を尊戴」し、「夷狄攘斥の御英断」を承知仕りたく」京都に滞在しているのに市中見廻りばかりをやらされ、再度上洛した将軍が公武合体をなさず攘夷も曖昧にしたまま江戸へ帰ろうとしている事への不満を述べた上で、「(前略)万一御発駕に相成候得ば、銘々離散被仰付候歟、亦は夫々御帰しに相成候哉、何れ共御処置被仰付候様奉願上候(後略)」と、新選組に解散を命じるか、江戸へ帰還させるか、何らかの指示を出して欲しいという進退伺いを提出しているんです。

もっとも、元治元年六月五日に起きた池田屋事件を機に、近藤は不満に感じていた京都市中の治安維持のため、容保の支配下として新選組の超法規的武装集団化を決意する。

幕閣へ提出した上書や知人へ宛てた手紙の中で、近藤は盛んに

・武門
・真武之大道
・士風の振と不振

という言葉を使っています。
これらの言葉で、旗本・御家人へ奮起を促しているんですが、国家的な難題を解決する自信と自覚が武門には求められ、一朝事があれば武をもってこれを排除するのが真の武士であると、こう近藤は認識しているのであり、その真の武士の姿を、身命を賭して朝廷・幕府・諸藩が一体となる新しい強力国家体制樹立に腐心し、池田屋事件の後に長州藩との全面戦争をも決意した容保に見たんですよ。

なお、清河は浪士組本体を率いて江戸へ戻る直前まで、幕府の目付に対し「攘夷の期限を決定するよう」書状を認めているので、あくまでも皇命を尊戴して幕府が主導する攘夷の尖兵として働くというのが本心であり、浪士組を私するつもりなどなかった。

さらに、「新選組」の隊名が下されるまえ、芹澤・近藤らが「壬生浪士組」あるいは「誠忠浪士組」を称していたという事実はありません。
「壬生詰めの浪士」もしくは「壬生浪士」です。

また、既に書いたように、近藤は新選組の解散を含めた進退伺いを提出している。
これは、近藤が独立心旺盛だったことをしめすものであり、したがって、新選組を傭兵部隊と見るのも誤り。
しいて言えば、政治結社でしょう。

質問した人からのコメント

2017/1/2 01:51:53

ありがとうございましたm(_ _)m
とても詳しくわかりやすかったです!!

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ben********さん

2017/1/119:45:40

容保は、京都守護職の座にあったことがあり、新撰組は、その配下にあった時期があったかと思います。
ただ、思った以上に、最後の将軍が、淡泊で、同じ船で、上京してしまいました。

新撰組の一部の人が、北へ逃れる際、会津若松藩を頼りました。

この時代は、苦手なのですが、ざっくりこんないきさつだと思います。

ina********さん

2017/1/119:06:12

1862年、清河八郎という庄内藩出身の浪人(実は尊皇派の志士)が、将軍徳川家茂の上洛に当たって非正規の浪人部隊を作れば、身分や所属に縛られずに使い勝手が良いと幕府に働きかけた。
幕府は旗本数名を取締役に200人あまりの浪士組を作って、京都へ先遣隊として派遣した。
京都に浪士組が付くと、清河八郎は態度を一変し浪士たちに「朝廷のため、尊皇攘夷のために働こう」と呼びかけて事実上私兵化し、朝廷に建白書を提出するなど不穏な動きを見せた。
ここまでに清河は幕府旗本の大部分を江戸においてきたり、辞任させるように仕向けたりしていたが、ここに至って唯一残っていた鵜殿鳩翁が奔走して、清河に同調する大部分の浪士は江戸に帰ることになった。
一方で清河と対立し将軍の警護に徹するべきという考えをもつ殿内・家里・根岸・芹沢・近藤ら20名余りが京都残留を申し出たので、鵜殿は彼らをまとめて壬生村の八木家の預け、壬生浪士組とした。
そして一連の騒ぎが収まると鵜殿も取締役を辞任、一方、江戸に帰った清河は幕府に暗殺された。

こうして幕府の担当官がいなくなってしまった壬生浪士組を引き受けたのが、当時京都守護職であった松平容保の会津藩であった。
会津藩は浪士組を会津藩預りとした上で、京都市内の一部を管轄とする警護任務を与えたのであった。
一方江戸に戻った挙句、指導者の清河を失った大半の浪士たちは、幕府によって新徴組とされて、当時の幕府老中だった庄内藩・酒井忠篤の預りとなり、江戸市中の警護を担い、後に薩摩藩が江戸の混乱を狙って行った御用盗の取締りとそれがエスカレートした江戸薩摩藩邸焼き討ち事件を起こしたりした。

さて壬生浪士組は新撰組となっても、活躍して近藤が旗本扱いになっても、立場上ずっと上司は会津藩であり、松平容保が総司令官という立場は変わらなかった。
鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、甲陽鎮撫隊と改名したときは独立した幕府部隊として活動したが、結局敗れた後は会津藩を頼り、会津戦争の敗戦が必至となっても斎藤一をはじめとする一部隊士は会津から退去せずに会津藩とともに降伏した。
一方で徹底抗戦を唱える土方らは会津を退去し函館まで戦った。

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goo********さん

2017/1/112:48:55

松平容保は京都守護職を任ぜられ、その治安維持の為に非正規警察軍として作られたのが新選組です。

京都見廻り組は旗本、御家人で結成され会津藩士の隊ではありません。リーダー格の佐々木只三郎は会津藩士の家に生まれていますが親戚の旗本のところに養子に入っており身分は旗本です。

tam********さん

2017/1/111:53:44

「新選組」は会津藩お預かりと言って、一時的に雇った百姓出
身の武闘組織です。この他に「京都見回り組」が在ってこれは
会津藩の武士で構成された正規軍でした。


Do you understand ?

「新選組」は会津藩お預かりと言って、一時的に雇った百姓出...

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