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山県有朋と伊藤博文は仲が悪かったのですか?

電波猫さん

2017/1/1818:27:33

山県有朋と伊藤博文は仲が悪かったのですか?

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brz********さん

2017/1/1908:53:33

若い頃は長州藩出身の政治家として協力し合う場面もあったでしょうが、明治時代の半ば以降は他の有力政治家が権力闘争から敗退していく過程でほとんどこの二人が藩閥政治家における二大巨頭という位置を占めるようになっていきました。

その頃にはかなり「俺の方が実力が上だ」という意識もあり、またこの二人の政治的手法や勢力の拡大方法などの考え方の違いなどから、ほぼ敵対関係に近い状態になっていったともいえると思います。


思いっきり大雑把にこの二人の考え方を要約してみます。

山縣の考え方は「政党政治家など信用できない。信用できるのは実際の行政や外交や軍事などに携わって成果を上げる力を発揮した有能な官僚であって、無知蒙昧な国民に選ばれた程度の有象無象などに権力を渡すなど危なっかしくで出来っこない」というモノ。

それゆえ、彼は薩長藩閥とも違う「山縣閥」とでも言うべき集団を作り上げました。出身母体である陸軍はもちろん、内務省や司法省などの重要官庁の主要者を自分の言うことを聞く子分たちで占めるようにし、これらの手下の力を糾合して政治を動かそうとしていきます。


対して伊藤博文はもうちょっと民間の力というモノを重視した政治家で、「今はまだ国民の教化が進んでいないので政党政治家もロクでもない人間ばかりが当選してくるが、やがて国民が成熟してくればちゃんとまともな人間が選ばれるようになっていくだろう。そうなれば議会に徐々に権限を渡してゆこう。国政に関与させることで責任の重さや行政の難しさが彼らに分かるようになっていけば、国の舵取りもできるようになっていくはずだ」という感じ。

なので、彼は自分の子分を作るというより、たとえ自分の言うことを聞かないとしても「優秀な人間を世に出して彼らに思う通りのことをやらせよう、失敗や挫折も経験させなければ良い政治家・良い官僚は育たない」という姿勢を取り、人材の育成や発掘・要職への登用といった行為を通じて、自派閥の形成よりも情実の絡まないフラットな能力主義を優先したという方向へ進みます。


上記のような政治家としての方向性の違いもあって、晩年のこの二人はあまり仲が良くなかったろうと思います。

伊藤の方が明治末に暗殺によって早くに死んでしまい、山縣の方は大正期を通じて大きな影響力を持ったために、晩年という言葉はあまりイメージ的にピンとこないところもありますが。

もし山縣の方が明治末に亡くなり、伊藤の方が大正期を通じて長生きをして元老としての存在感を持っていたとしたなら、日本のその後の姿は結構大きく変わっていたような気もしますね。
少なくとも、もっと議会重視で立憲主義的な方向の政治が執り行われていく方に進んでいったのではないかと思っています。

質問した人からのコメント

2017/1/24 20:11:59

みなさん、ありがとうございました。

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kam********さん

2017/1/2022:51:19

もともと両者の関係は微妙。
日清戦争時からより微妙になっている。
原因は、当時首相だった伊藤が大本営にも列席し、政略的立場からやや強引に戦略にも口をはさみ、当時第一軍軍司令官だった山縣が戦功をあせって満州に進攻しようとしたのを阻止するため、天皇も巻き込んで、病気療養名目で山縣を戦場から召喚したことによる。

日露戦争以後は、伊藤の韓国統監就任の際の統監による韓国駐箚軍の指揮権をめぐって、文官の伊藤による軍隊指揮権問題でまず紛糾した。
当時参謀長だった大山が間に入って、「初代だし、元老でもある伊藤に限って」という条件で決着させ、大騒動に発展するのをなんとか防いだ。

両者の関係が決定的になったのは、伊藤が立憲制を確立するため、軍の帷幄上奏権を抑え込もうと、1907年(明治40年)に「公式冷」を公布し、公文書式を整備して、首相の権限の強化を図ったのに対して、軍を代表して山縣が反対し、対抗して「軍令」を制定して、統帥に関する事項の制定については、勅令とは別にして軍部大臣の副署のみで発効することを目指して、首相の権限を弱体化させようとした。
結局、山縣が伊藤、西園寺首相らの憲法違反になるという反対を押さえて、天皇の裁定に持ち込んで、家父長的な専制君主体質が最後まで抜けなかった明治天皇による天皇の統帥権での決定として、存在していない軍令によって「軍令」を制定してしまった。

まあ、最後は暴君の明治天皇がやっちゃたこととはいえ、結果的に伊藤が目指した立憲制はダメになってしまったため、両者の関係は修復不能となった。

neko-jonesさん

2017/1/1819:10:56

何の本で読んだか全然確認できないので、非常にぼやっとした答えになります。
昔ものすごいピンチの時があって、奇兵隊率いる高杉晋作が「危険だが俺を信じてついて来てくれ!」みたいになった時、伊藤は迷わず「ついていきます!」と答えたけど、山県だけは「え~?…それはちょっと…」となったらしい。
そのことがあるから伊藤は山県に対して「俺はあの時の、お前の不名誉な態度を覚えてるぞ」とゆう強みがあったとか。
もっと詳しい人の回答があるかも知れません。

riv********さん

2017/1/1818:43:10

正確には「山県有朋は伊藤博文には頭が上がらなかった」だと思います。

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