ここから本文です

三国志の費禕と姜維の関係について。

フルボッコちゃんさん

2017/3/1818:30:18

三国志の費禕と姜維の関係について。

費禕は北伐したがる姜維を許しませんでしたが、費禕が死ぬと姜維は立て続けに北伐を敢行していることから、内心納得していなかったのは明らかです。
まるで諸葛亮と魏延の関係のようですが、姜維は費禕をどう思っていたんでしょうか?
「勝手なこと言いやがって、俺が諸葛丞相に劣るだと? テメーが臆病なせいで俺の能力が発揮できねーんだよ!」ってなノリ?

閲覧数:
541
回答数:
3
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

kou********さん

2017/3/2019:32:46

vitamin_8898さんの仰るように、姜維の北伐は、魏の動乱や呉の動きに連動しようとしたのは間違いないと思います・・・が、どうしても物理的距離の問題があって、タイミングがちょいずれてしまうという、悲しい宿命があるのですよね。これは諸葛亮時代からですけど・・・。

で、まあ、陳祗さんですけど。仇国論のくだりで、ちくま訳で譙周と論争し、となっていて、あたかも主戦派っぽくなってますけど、たぶん、違うと思います。
原文では、「周、与尚書令陳祗、論其利害・・・」なので、単純に陳祗と北伐の利害を論じ合って、それを論文にまとめた、というだけでしょう。
つまり、陳祗も反戦派だったと思います。


華陽国志では、陳祗の死去は259年8月で、正史とは1年食い違い。
仇国論は258年、姜維の帰還後に書かれたようです。ここでも陳祗は黄皓と表裏一体で、この年に黄皓が黄門丞から奉車都尉・中常侍となって政治に参加したとあります。
姜維が北伐をしなくなったのもこの辺の体制変化があるのかもしれません。
また姜維が漢中の防衛ラインの大幅改変を行ったのも258年。

258年がいろいろ体制に変化があった年なのは間違いないです。
陳祗もそれまでは主戦派だったのが、この年になって考えを改めた、ということなのかもしれません。
まあ、251年以降、姜維の北伐は毎年ありましたけど、最初の方は、決定的敗戦もなく、少しは戦果もあったのが、256年の大敗があって、世論が動いた、ということなのか・・・。
で、いろいろ考えるとどうも黄皓だと。それで黄皓殺せ、という事にもなっていくのではないですかね。

  • 質問者

    フルボッコちゃんさん

    2017/3/2101:23:18

    ちくま訳にそのまま流されてましたが、マジですか。
    そうなると陳祗の印象や姜維の動向解釈がだいぶ変わってきますね…。

    姜維が黄皓を殺すように言ったのと、黄皓・諸葛瞻・董厥・閻宇の四人が姜維を降ろそうとしたのって、どっちが先なんですかね?

  • その他の返信(1件)を表示

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2017/3/22 10:58:50

皆さん御回答ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜2件/2件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

vit********さん

2017/3/1909:37:29

んー…(〃∇〃)そんな仲悪くないかと思います。

蜀は蔣琬体制からの脱却と多頭政治に突入してて、費禕も姜維も名士であり文官であり武官であるので軍務政務ともに責任を共有します。下記回答の文武の違いとか必要悪な対立というのは違うと思います。

本来なら呂乂というところで姜維が録尚書事になっているのは費禕も呂乂もそうと認めたわけだし、郤正の言葉を信じれば、鄭玄厨の姜維はそもそも儒学的に優等生であり性格的にクセがなく、とくに序列を超えてエゴを通すというものもないので諸葛亮にも認められたと思います。ので諸葛亮&魏延のあの殺伐さとは似て非なるものかとも思います。チクリマスター楊儀もいないので。

庶民に落とされた廖立を御見舞しているちょっと優しい姜維は、費禕とラブラブではないにしても、蔣琬降ろし以後まずまず正常な信頼関係だったと思います。張郃も魏延も周瑜もそうですが、そもそもNo.2は対案を出してこそなので意見の相違が相性の相違ではないはずです。「あなた方の意見を採用しなかったのはタイミングであって、本来ならあなたが正しい。今後も発言を控えないで欲しい」的なフォローがあるのが曹操。ないのが諸葛亮。グレたのが魏延。チクったのが楊儀。フォローしていたのはいつも費禕。

費禕がわざわざ諸葛亮の名を出して”吾ら”では無理といって大規模北伐を抑えたのも、見方を変えれば姜維を孤立させない費禕なりのアフターフォローにも取れます。あの魏延と楊儀の間に入れて、蔣琬に対する楊儀の空気を察知し、小規模北伐でガス抜きさせてる大魔道士費禕が、そうそう姜維と軽率に対立軸に立つでしょうか…。姜維からしても費禕は太子劉璿の義父、次期皇帝の外戚に楯突くようなバカではないと思います。

姜維の立て続けの北伐も抑圧の反動というより魏動乱に沿ったものだったと思います。大魔導師が突然死んで3,4ヶ月後すぐでしたが、諸葛恪北伐→李簡寝返り→都督夏侯玄誅殺→司馬師クーデター→曹髦即位→夏侯覇投降→毋丘倹文欽反乱→司馬師死亡→諸葛誕反乱と、たった3,4年でのスーパーミラクルチャンスにも関わらず、国力温存で守勢に徹せというならむしろ蜀漢の才覚を疑います。陳祗は北伐推進論者というより、北伐するべき時機だったので北伐OKだっただけでしょう。そもそもレベル差無視して回復アイテムないけどラスボス倒そうとしたのは諸葛亮なんだし、仇国論は正論だけどまさに諸葛亮や費禕の「仇」を取りたい北伐組からすれば、この期に及んで「北伐は無謀」とか今更感満載だとも思う。諸葛亮型北伐からの脱却と無謀覚悟で挑んだ結果ラスボスどころか中ボスが強すぎて勇者姜維の物語はひっそり幕を閉じたんですけど…。

孫盛に亡国の乱相と呼ばれても結構でしょ。そもそもクーデター勃発してるんだからいつ攻めるの?今でしょ!!のノリでしょ。←今でしょ言いたいだけw

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

プロフィール画像

カテゴリマスター

goo********さん

2017/3/1819:02:06

そうだと思いますね。

古今東西で文官と軍人の対立はよくあります。基本、文治に力を注ぐのが文官、戦争に力を注ぐのが軍人。文官からすればぐ軍人はいわば必要悪としての存在です。

諸葛亮とて内心は北伐はやりたくなかったのだともいう意見もあります。主君劉備の遺命に愚直にも臣従して北伐を行いましたが、蜀を完全な独立国として軌道に乗せる方が重要だったでしょう。とにかく国力からして魏と3倍ぐらいの差が付けられていたわけですから。

魏延も姜維も軍人としては上レベルだったと思います。決して愚将ではない。費禕としては内政最優先でまず国力御増強させることが先決ですから魏が積極的に攻め込む姿勢を見せなければこちらからわざわざ出征することは愚策と考えていたでしょう。

そう考えると、そもそも諸葛亮の北伐自体、劉備の遺命/漢室の復活のためでなく「蜀の為に」魏がどういう対外姿勢を持っているかという威力偵察と、「蜀だってこれだけ強いんだぞ」というデモンストレーションの側面があったと思います。無理して魏に完全勝利しようなどとは思わなかったでしょう。
諸葛亮は魏が「蜀は侮りがたし、下手に攻め込むとこちらが危険だ」という意識を植え付けさせ,魏による蜀侵攻に対する抑止と蜀の完全独立かに邁進したかったのでは。

後継の費禕は常日頃から諸葛亮に本心を打ち明けられていただろうから、姜維の積極北伐に対してはNOだったのです。

費禕は魏の降将に宴席で殺されたけど、もしかしたら姜維が裏で糸を引いているということはあり得るか、という疑問を持っています。

あわせて知りたい

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる