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江戸幕府による史跡管理と文化財に対する姿勢について 例えば現代では貴重な文...

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ID非公開さん

2017/3/1921:59:24

江戸幕府による史跡管理と文化財に対する姿勢について

例えば現代では貴重な文化財とされている法隆寺などの神社仏閣、古墳などは幕府により厳格に管理されていたのでしょうか?

そして当時から幕府は文化財に価値を見出し現代にような文化財法のような決まりごとを作って管理したのでしょうか?

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lin150525さん

編集あり2017/3/1922:43:59

文化財法のようなものはなかったと認識しております。
江戸時代、人々の信仰心はとても強く、神社仏閣に対して特別な保護がなくとも問題ない時代でした。
古墳に対しては、上に神社が築かれたものが一部存在します。それは信仰の対象となり、大事にされました。また、伝承によって地元の人が独自に守ったものもあります。

しかし、地元の人の判断によって、開墾による破壊や畑への利用なされたものが多いでしょう。

陵墓に関しては、江戸時代から博識家がどれが誰の墓か推定を行っています。
しかし、それを特別に法で守ろうという気持ちは無かったようです。仁徳天皇陵なんかは花見の名所だったようですし。

かといって何も幕府がなにも行わなかったわけではありません。
1600年の終わり元禄年間と1800年中頃の文久年間に修陵を複数の藩に命じています。

陵墓に価値を見いだし始めたのは明治になってからです。根底にあるのは皇国視観という時代の流れでした。
しかし、これも陵墓という一部の古墳であり、多くの古墳や遺跡は、昭和に文化財保護法ができるまで盗掘や破壊が盛んに行われます。

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2017/3/2007:20:41

江戸時代中期の元禄の頃、大和国の天皇陵の詳細な研究を残した人に細井広沢(ほそいこうたく)がいました。広沢は大和国の天皇陵が荒廃したままになっている現状を憂い、 主君の柳沢出羽守吉保に具申しました。それが動機となって、幕府が各天皇陵に竹垣を作り、一般人が侵入できないようにしました。この事業の完成後に広沢が記したのが『諸陵周垣成就記』(しょりょうしゅうえんじょうじゅき)で、天皇陵の写生画が添付されています。広沢はこれを幕府に提出しています。
その後、100年以上も経って、国学者として著名な伴信友は、広沢の著作の価値を認め、わざわざ江戸へ出向き、幕府が蔵していた原本を借り受け写しています。信友が作成した写本は、当時の知識人たちによって盛んに転写されたらしく、各地に残っています。

江戸時代中期、筑前国福岡藩は国学者などの意見を採用し、荒廃し荒れ果てていた都府楼跡(大宰府政庁跡)の大規模な整備事業を実施しています。綿密な整備事業計画だったらしく、平成の発掘調査でもそれが確認されています。

2017/3/2001:06:20

徳川光圀が「那須国造碑」の解明のため古墳の発掘調査を行い、出土品を木箱に納めて玄室に戻した、というような話はあるものの江戸時代には「文化財としての保存」という意識も概念もなかったと思われます。

法隆寺などは「聖徳太子ゆかりの古刹」ということで保護はしたでしょうけれど建物は保存よりは維持・修理です。
現在は建物が古くなると取り壊して新築してしまいますが、江戸時代以前は基本的には「解体修理」です。
あくまで「建物の機能を維持するための修理」であるため文化財修理としては不適切なことも行われています。

天皇陵についても「公武合体」政策で「修理」されていますが、新たに堀を掘ったり、墳丘に新たな盛り土をしたりしています。
これもまた「現状維持のための修繕」であって「文化財としての修繕」ではないです。

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