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鎌倉幕府は将軍がいない時期が結構多いですよね? 歴史の教科書でも頼朝が将軍に...

my_********さん

2017/3/2003:50:55

鎌倉幕府は将軍がいない時期が結構多いですよね?
歴史の教科書でも頼朝が将軍に任官される前に鎌倉幕府が成立したとしていますし、将軍が存在するかどうかが関係無いとすると、幕府の成立要件

は何なのでしょうか?

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knz********さん

2017/3/2008:54:22

鎌倉幕府(武家政権)は唯一の武家の棟梁(主)と武士(家人)との封建的主従関係(御恩と奉公)を基礎とする組織です。この組織は別に特定の碑に成立宣言をしたわけではなく、組織・機構化には段階があって、一時に成立したわけではありません。従来の教科書の鎌倉幕府成立年とした1192年は源頼朝の征夷大将軍補任を根拠とした者です。ですが、これは律令制下の軍官(近衛大将や大将軍など)が「幕府」開設が出来るという名分論から江戸時台後半に唱えられた説から来ています。現在の研究では、征夷大将軍補任で賴朝に何らかの権能が得られたわけでなく、単なる名分としての大将軍号をえただけと、理解されています。このため、教科書から鎌倉幕府成立年としての1192年は消えるとになりました。要するに、ある特定の日時に鎌倉幕府が成立したのではなく、段階的に成立したというのが、現在の研究見解です。このため、賴朝が内乱に蹶起して、鎌倉に大倉亭(政庁)を開設した1180年12月から1190年3月の上洛までの幅で成立を考えています。段階的に重要な日時は、1183年10月の10月宣旨、1184年10月の公文所設置、1185年11月の守護地頭設置、1190年3月の右近衛大将任官です。

賴朝の征夷大将軍補任が先例となって、以後の武家の棟梁は征夷大将軍に補任するようになります。ただし、武家の棟梁を継承した時に、直ちに征夷大将軍に補任されたわけでなく、例えば、2代将軍頼家は1199年1月の賴朝死去を受けて武家の棟梁を継承しますが、直ちに任官したのは左近衛中将で、征夷大将軍に補任されたのは1202年8月と時期が離れています。このことは征夷大将軍が武家の棟梁に必須の職といえなかったことの反映です。

  • knz********さん

    2017/3/2009:52:54

    徳川幕府まで歴代の武家の棟梁は、関白を選択した豊臣政権を除き、賴朝の先例により、征夷大将軍に補任されていることから、武家の棟梁=将軍ということになり、現在に定着しているのです。
    hjxy1045さんのいうように、賴朝が要求したのは「大将軍」号であって、朝廷が大将軍号の中から征夷大将軍を選択して補任したので、名誉的なもので権能は関係ありません。
    櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『三槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」『明月記研究』第9号2004年12月 p117~30
    参照。

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2017/3/26 08:01:18

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bir********さん

2017/3/2012:01:32

平城京から平安京に遷都して奈良時代が平安時代に
変わったのは、ほかならぬ平城京の中央政府では
ダメだったからだ。平城京の首都機能が限界きて
衰退していたからだ。
そうやって平安京に取って替わった平安時代が
中央政都を京から鎌倉に移って鎌倉幕府の
鎌倉時代に、変わったのは、前回の政府の移譲
のように平安時代末期の衰退や源平合戦での戦災で
平安京が都として機能が限界を迎えて都として
不全だったからに他ならない。
そうやって鎌倉幕府の天下になった以上、源氏の
直系血筋が絶えたぐらいで鎌倉幕府を終局する
訳には、いかなかったからだろう。幕府を
変えようにも、その当時、鎌倉から他所へ
委譲の候補地は、あったろうか。
その鎌倉幕府が終焉して今度は都が京の
足利幕府に、なったのは、鎌倉が、もう都として
使えない状態だったが京都は、再度、都として
使えるほど復興していたからだ。だから
足利氏は関東の出身だったが京都に室町幕府を
創建したのであろう。

2017/3/2009:41:13

「幕府」とか「征夷大将軍」に重要な意味がある。
源頼朝は征夷大将軍になることを熱望した。それは、幕府を開けるからである。

なんてのは、旧説であり、

頼朝は「大将軍なら何でもいい」と朝廷に要求し、
朝廷は、大将軍レベルで、縁起の悪い惣官などではなくて、縁起の良い征夷大将軍を選んだ。

というのが今日の有力説です。

武家政権の実力は、一にも二にも土地の支配力にあり、「将軍」や「幕府」という名称に大した意味はありません。
後の室町幕府が弱体であり、織田政権や豊臣政権の短命さも、後継者の土地支配力が低いからでした。

源氏による武家政権の間接的な土地支配力が1185年の守護地頭の設置により、急成長しましたので、この時に源氏の武家政権が成立したとし、後に将軍になったので「幕府」と名付けたと解釈すべきでしょう。

土地支配力が日本一に増大した時を武家政権の成立とし、
その武家政権の長が征夷大将軍なら、
幕府と呼ぶ、ということです。

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js4********さん

2017/3/2006:04:57

国の成立要件とは、トップより支配体制そのものと言えるのでは? まあ、そのへんを決めるのは、歴史教育に携わるお偉いさんなので詳しい事は文科省にでも聞いてくれ。
それに、鎌倉幕府においての源氏は神輿に過ぎないから、将軍が空位でもそれがどうしたってかんじではないかな?

武蔵さん

2017/3/2005:39:42

武士による武士のための武士の政治。寄生地主の天皇・上皇、藤原摂関家から荘園の元々の開墾領主武士の手に年貢が多く入るようにすることが武士の願いでした。

この武士の願いに対する政策を平家は取らなかったので平家は武士の支持を失いました。将軍などいてもいなくても武士の願望を叶えてくれる政策を行ってくれる武士の政権なら一所懸命の武士は支持しました。

承久の変の時、幕府に将軍はいませんでしたが関東武士は後鳥羽上皇ではなく幕府を支持しましたね。

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