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本能寺の変の後、羽柴秀吉の家臣になる織田の旧臣たち(丹羽長秀、池田恒興、森長可...

ker********さん

2017/4/1113:30:48

本能寺の変の後、羽柴秀吉の家臣になる織田の旧臣たち(丹羽長秀、池田恒興、森長可、堀秀政、蒲生氏郷など)は進んで臣従していったのでしょうか?それともしぶしぶ従っていたのでしょうか?

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iik********さん

2017/4/1118:46:03

それは違うんじゃないでしょうか?

確かに、「山崎の戦い」のすぐ後くらいなら、「サルめ、上手くやりおったわ」くらいに思っていたメンバーはいたかもしれません。

だけど、同時にこのメンバーは、「丹羽長秀」を除けば「織田家の中堅どころ」ではあっても「重鎮」を名乗るにはちと役不足の面々です。
特に「筆頭」の柴田勝家からすれば、まだまだ小者という部類に違いありません。

それが、「山崎の戦い」で一翼を担ったとは言え、「池田恒興」が「清須会議」に、というのは、破格の昇進だった筈だし、そこには「大将」だった秀吉のバックアップがあったと思って間違いは無いでしょう。

「な、なに?!と、藤吉郎が、いや、羽柴殿がワシを清須会議に!!」

ともなれば、そりゃ感謝もしますよ。
どうせ、いろいろと言われもしたでしょうからねえ。

「池田殿の山崎でのお働き、見事の一言だったぎゃあ、これからも織田家のためにがんばってちょ」

「うう、ち、筑前殿…、何とお礼を申せば…もはや、上様とお呼びするしか…」

「まだ早いぎゃあ、池田殿、それより会議、頼みましたぎゃあ」

「は!上様!!」

「だから早いぎゃあ…」

どうせ、こんな感じだったに決まっています、尾張弁はよくわからないけれど。
他の者だって、大なり小なり、似たようなもんでしょう。

一人、別格なのは「丹羽長秀」ですが、この人はなぜか織田家重鎮でも、以前から秀吉を援助してくれた珍しい御仁で、一説には、自身も才能にあふれ、信長にも重用されながら、信長の個性に押されて脇役に徹した人物とか評価されています。
むしろ、秀吉が上に立ってくれればホッとする、そんな意味では修理より筑前、…と、それではあまりにドラマ仕立てかもしれませんが、少なくとも秀吉に「ちっ」と思う立場では無かった筈です。

そう考えると、「渋々」どころか「嬉々として」に近いんじゃないかと思います。

  • iik********さん

    2017/4/1120:59:56

    すいません、典型的な「役不足」の誤用をしてしまいました。

    ご指摘いただいた「kantaro20072003さん」に感謝します。

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gpx********さん

2017/4/1222:50:11

秀吉しか選択肢が無かったのであれば「渋々」ということにもなるでしょうが、軍団長クラスの重臣は柴田勝家や滝川一益も居たわけで、むしろ「秀吉が勝ち馬になる」と当て込んでいたのだとすれば、進んで従ったと見るべきかと思います。

堀秀政は中国大返しから、長秀と恒興は山崎の合戦で秀吉に与同しますが、その時は秀吉からの誘いが有ったにせよ、嫌々であればその後は秀吉から離れるでしょう。

ところが実際には清須会議後も秀吉に同調していますから、秀吉を推していたと考えるのが妥当な気がします。

yukuntennsaiさん

2017/4/1220:33:46

丹羽長秀は、羽柴秀吉が明智光秀を討ち取ったことを知り秀吉に協力の姿勢を見せていて、清洲会議では、秀吉の意見に同調しています。賤ヶ岳の戦いでは、完全に秀吉の味方になっています(この時点で秀吉に臣従)。

池田恒興は、秀吉が中国大返しで、姫路城に入った頃秀吉に臣従の意を示しています。

森長可は、小牧長久手の戦いの少し前に秀吉から勧誘があり(自主的に??)秀吉の家臣になっています。小牧長久手の戦いで、戦死してしまいましたが。

堀秀政・蒲生氏郷は、早くから秀吉に協力していて、秀吉の軍門に加わっています。

矢法太郎さん

2017/4/1120:08:54

歴史好きなだけの素人ですので、
当時の人々の日記とか手紙はしりません。
ですから映画とか小説で見聞きした範囲で言います。

清州会議の段階では秀吉に臣従するなんて家臣はいなかったと。
ただ、信雄や信孝を主君として推戴して織田家を盛りたてて行きたいと本心から思ってた家臣はいなかったと私は思います。
理由は信長の恐怖政治だと。
常に結果を出していかなければいつ降格されるかわからない。
宿老の林佐渡や佐久間ゲンバですら追放です。
松永弾正や荒木村重のようにノイローゼ気味で謀反を企てる武将もいます。
それと、信長の人生で最大のピンチ、桶狭間で大手柄をあげた毛利新介、梁田正綱らはその後目覚ましい出世はしていません。
大功を立てれば褒美は出すが、そのままならどんどん降格。
こういう苛烈な扱いに家臣団はヘトヘトだったんじゃないかと。
光秀の謀反がノイローゼからだったとは思ってませんが、
信雄、信孝に実権を渡さないという、
もう織田家は家臣団で好きにするんだという緩やかな謀反があったんじゃないかと。

ですから秀吉が主張した「三法師」にみんなが飛びついた。
信雄、信孝が他家に養子に出て行って、それは秀吉の養子の於次秀勝も同じだというシツエイションが功を奏したということはあるでしょう。
信雄、信孝が家督相続を主張すれば、
秀吉だって息子を使って同じことができると。
だから三法師というのは皆が異を唱えない絶妙な案なんです。
幼君だから群臣の合議で好きにできる。
信長が奴隷のように家臣を扱うのを見ていた二人の息子は「ご親戚」として家臣団扱い。

ただ、この段階で、じゃ誰が家臣団のトップなんですか?という結論はでません。
ある者は宿老トップの柴田勝家を、ある者は戦功一番の秀吉をと真っ二つに割れましたが、それに信雄、信孝がお飾りのトップとして乗っかりました。
その時秀吉は丹羽長秀を籠絡しました。
たぶん長秀に宿老トップの座を進めでもしたんでしょう。
人誑しと言われた秀吉の面目躍如でしょう。
池田恒興とかもそうでしょうね。
秀吉について行ったら儲かる。
そう思わせたんだと思います。
柴田勝家の下だとあまり儲かりそうもないと。

そして賤ヶ岳です。
この時点で既に三法師のことは誰も気にかけていません。
で、秀吉の大勝利。
長秀は秀吉から恩賞を貰う立場になっている自分を発見して愕然としたんじゃないですかね。
ですから余命いくばくもないと悟った時、
腹をかっさばいて憤死しました。

あおさん

2017/4/1116:44:42

渋々でしょうね。明智討ちをして大義名分の力は、すごかったでしょう。
秀吉の家臣の力も影響したようです。秀吉も人垂らしですし、黒田官兵衛も同じだったので、調略がその時代いかに影響したかが、わかります。情報戦も人一倍すごかったので、秀吉の後ろ盾に毛利家がいると思っているてのも流言で出来ますしね

oda********さん

2017/4/1115:41:40

空・渋柿であろう・・・みな信長だから尊敬したのである☞凄い器にである・・秀吉は知恵者であり頭脳は切れたが信長とは比較対象にもならんのである。尾張織田宗家当主・名古屋。

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