前に「秀吉が手紙の中でわしは信長ほど甘くはないぞと、かつて主君であった信長を呼び捨てにしていた云々」ということを質問をしたことがあります。

日本史 | 一般教養1,087閲覧

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gpxさんがご指摘の家忠日記については、高橋修氏が論及されています。 家忠の同僚同輩に対しては、官途名や殿をつけて呼んでいるのに、家康は実名呼び捨てであることから、敬意表現であることを指摘しています。 これが変化していくのは豊臣政権下で官位序列に組み込まれていったからであるとの考えのようです。実力本位の時代においては実名呼び捨てがむしろ敬意の表れであり、平和な時代に移行するにつれて官位序列や実名敬避俗が復活してくるということなのかもしれません。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

元主君より立場が上になったということで呼び捨てにするというのは、成り上がり者の成り上がり者たる所以かなとも思いましたが、まだこれから研究もされそうですね。 皆様のご回答に感謝いたします。勉強になりました。

お礼日時:2017/4/30 13:47

その他の回答(4件)

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本物の回答をしましょう⇒手紙をもし信長が視れば⇒こん棒で叩くぞよ=この大馬鹿門がと・もし直に言葉で言うたならその場で斬り殺す!信長は異常なプライドが超高いノダ・・何が敬意だ馬鹿やろが・・ただ手紙の内容が信長ほど甘くはないは正解である!信長は正義一路・優しい人間である=甘さがどうしても加味されるのである。が・舐めると殺すぞ突然狂人にニャル・・呼び捨ては第三者であるが・この第三者が呼び捨てしてましたなどと信長に言うなら誰でも殺されるんだ!血族の耳に入るだけで殺すぞ誰でも=これが信長血族である。尾張織田宗家当主・名古屋。

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以前この質問に回答した者です。 質問が特定の史料に関する質問でしたので、それに即した回答をしましたが、取次衆が諸国の戦国大名に書状を送る際に主君を敬称略で記した史料は存在しています。 永禄十二年(1569年)三月十二日付小早川隆景宛木下秀吉書状の釈文を下記に記しますね。 「今度信長江従元就為御使、永興寺御上国従・・・以下略」 この書状では主君・信長を二度敬称略で記しています。 取次(申次)衆による外交文書で主君を敬称略で記す例はあります。 敬称略は敬意と捉えるより、公式文書における書様と私は理解しています。 史家・本郷氏の評判がよくないのは、秀吉が信長を呼び捨てにしたと紹介する歴史好きの興味を煽るような手法に一因があるかもしれませんね。

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『家忠日記』の中で、松平家忠は主君である家康のことを始めは「家康」と呼び捨てにして記していますが、後に家康が甲・信・駿・遠・三の五ヵ国を領するようになると、「家康様」と様を付けて記すようになりました。参考までに、家忠は信長のことは最初から「上様」と記しています。 もし、 >この時代での呼び捨ては敬意でもある ということになると、この家忠の家康に対する記述の変化(の理由)は何なのだろう?と思います。 「この時代での呼び捨ては敬意でもある」というのは、あくまでケースバイケースなのではないでしょうか。つまり、「そういうことも有ったかもしれないが、一概にそうとも言えない」ということです。

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少し違うと思います。 まず諱を使うことが憚られた時代があり、 それを前提に確かに、この時代に 前時代よりは諱を使う流行ができていたようで 秀吉が家康をまんま家康と書簡に書いたりなど 多々、見られますが 基本的には同僚や同胞などへの仲間意識をアピールした 感じのように見られています。 しかし上役にそういった使用をした例は 戦国時代~安土桃山にも見られず この用法では明らかに信長を少し馬鹿にしています。 または自分は信長を呼び捨て出来るほどの 存在だとのアピールも含まれるかとも見れます。