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なぜ織田信長は、おつやの方を許さなかったのですか。 ちょうど本日、秋山信友と...

rit********さん

2017/5/1923:46:03

なぜ織田信長は、おつやの方を許さなかったのですか。
ちょうど本日、秋山信友とおつやの方の話をNHKでやっていました。
長良川で逆さ磔けの刑と言うむごい仕打ちをする話が有名ですね。

許してやると言って、出てきたところを捕まえられるという良くやる信長の必殺技ですよね。

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Dyiighuさん

2017/5/2019:05:19

信長の実子が人質として武田に送られる原因を作ったからでしょう
信長は敵対した身内には厳しく味方の身内には甘く味方の身内が死んだ場合はその報復は徹底的に行います
おつやの方は信長からしたら敵対した身内という要素に加え大事な実子を敵方に引き渡した裏切り者です
実際人質として武田方に引き渡された子は後に織田家に返還されたのですが信長は犬山城の城主に迎えるなど厚遇したことを考えると信長にとっては大事な子供だったようです

自らの信頼を裏切るどころか大事な実子を敵方に引き渡した
これらの行いが信長には許せなかったのでしょう

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k1_********さん

2017/5/2007:26:35

有名なフレンツェの「マキャベリ」の「君主論」には、君主たるもの、親しまれるより、畏怖をもたれるべしなどある。これは、国の東西における時代背景に日本でいう戦国期独特の生存競争のシビアなリーダー(君主)たるものの心得として共通するものがあった。つまり、甘い顔をせず、引き締めて、極論すれば恐怖政治(油断大敵をモットーにした厳しい北風政策)なのである。当時の信長も他の領主なども概ね、この厳しい姿勢を基本にし、血で血を争う戦国期の戒めで、たとえ身内のものでも、裏切りなど行為には、他の者への見せしめに、処刑を行い。その裏切りや背信行為への抑制策にしたのは、珍しくもないことだった。この逆で、よく言われるのが太陽政策で、中でも豊臣秀吉のそれは、有名だが、その秀吉でも、結構残虐性を発揮、つまり彼も、硬軟使い分けてあったのである。現行では、この路線を行ってるのが、共産主義国家、一党独裁国家で反体制派と見なされれば粛清を断行する。この極端な国策を行ってるのが、北朝鮮のキムで、先の腹違いの兄を暗殺するなど、およそ君主論のそれには程遠い(レベルの低い)、ただの独裁者の姿である。

bir********さん

2017/5/2006:03:34

おつや、が秋山信友と共謀して城を獲ったとき
同城に住んだ織田信長の息子が武田の人質
として甲斐に送られた。
このため三方が原の合戦で織田が真剣に援軍を
徳川へ多くは送らなかったのは織田信長が
人質になっている息子が武田に殺されかねない
ので遠慮したらしい。

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he0********さん

2017/5/1923:55:33

昔読んだ本では、織田を裏切り、武田に就いたから、と云う理由だそうです。

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