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持統 天皇 ( ウ ノ ) は 望まない即位だったにも関わらず 歴代天皇の中でも抜群の...

sta********さん

2017/6/1111:02:06

持統 天皇 ( ウ ノ ) は
望まない即位だったにも関わらず
歴代天皇の中でも抜群の事績を果たしている
のは な ぜ ?


本当に
彼女は 7歳の 軽 ( カ ル ) の即位なんかを

推したのだろうか?

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pin********さん

2017/6/1115:40:45

「持統」が即位したのは「日本書紀、続日本紀」の編者たちの都合です。
実際の歴史展開は、「筑紫君薩野馬(日本書紀が天武と言っている人物」が崩御した後、彼の息子の「高市皇子が即位しています」。
663年に、百済の復国と高句麗への救援の為に白村江に軍隊を派遣してたのは、「九州倭国王筑紫君薩野馬」で、彼は、唐の捕虜となっています。
この混乱期に、「天智」が、滅亡した百済からの亡命王族や遺民を結集し「近江に政権を樹立しています」、これは、九州倭国に対する「天智の乱」で、671年に唐の捕虜となっていた「筑紫君薩野馬」が帰還して来て、「皇子の高市に、近江朝の大友の討伐を指示しています」、これが「壬申の乱」です。
この時期の九州倭国の政治的範囲は、九州は勿論、中国四国、近畿、東海、関東にまで及んでいて(郡評問題の解決で明らかです)、「天智―大友サイド」には最初か勝算はありませんでした。
壬申の乱後に、筑紫君薩野馬―高市皇子は、九州嶋から近畿(飛鳥浄御原宮)に入り、各種の政治改革を実施中の、686年に筑紫君薩野馬は崩御し、そのあとを「高市皇子」が引き継いで、
①685年以前の負債の利息徴収を禁じたり。
②諸国の調賦の半分を免じたり。
③浄御原令を発布したり。
④史書編纂の為に、各氏に祖先の纂記を提出させたり。
⑤初めて諸国に巡察使を派遣したり。
⑥694年には、大宰府(遠の朝廷)から「新益京(藤原京)」に遷都して来ます。
この様な、列島内を統一するような、重要な政治的課題を、「筑紫君薩野馬(天武)の皇后だから」という事で、実施できるほど、「世の中、甘いものではありまません」。
「持統」の治世は「高市天皇」を中心として「弓削皇子を含めた、其の他の筑紫君薩野馬の皇子たち(皇親)と多治比嶋、阿部御主人などの官僚たちが行った治世です」。
「日本書紀、続日本紀」の編者たちは、「天智―大友」で一旦断絶した皇統が、「光仁(天智の孫)、桓武」に時代に復権したことにより、断絶が無いように「取り繕うために、各種の策(はかりごと)」を講じています。
「天智と天武は実の兄弟」、「持統の即位」「天武と持統の子、草壁と阿閇の子が文武(実際は、高市と阿閇の子が文武です」等々。
「持統紀」は「続日本紀の編纂時に、高市天皇紀」を編纂し直しています。
「日本書紀」の改編者も、持統紀の最後で、「8月1日、天皇(持統)は、宮中での策(はかりごと)を決定され、皇太子(文武)に天皇の位をお譲りになった」。
と、暴露しています。
「文武」の即位も、697年と成っていますが、実際は即位は701年の(大宝元年)で、「高市天皇の次の弓削天皇を隠蔽しています」。
という事で、長くなりましたが、「抜群の事績を果たしたのは、持統ではなく、高市天皇」という、トンデモナイ回答はどうでしょうか。
一度、ご精査してみて下さい。よろしくお願いします!

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rek********さん

2017/6/1114:21:20

父親のエリート教育です。祖母の斉明も、最先端の教育をほどこされ、異常に博識でした。

草壁吉士という渡来系のエリート集団に育てられたようです。

孫の元正天皇、は法律のエキスパートでした。

この一家は男女をとわず天才並の知能を持っていたのかも。

孝謙天皇も、天才吉備真備が教師です。

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