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浄土真宗では先祖供養などの追善供養はしないとききましたが、生前、南無阿弥陀仏...

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ID非公開さん

2017/8/212:45:40

浄土真宗では先祖供養などの追善供養はしないとききましたが、生前、南無阿弥陀仏を唱えていなかった人も供養はいらないのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

xxx********さん

2017/8/215:03:45

生きてる時にちゃんと即身成仏した人は、極楽浄土に往生してますから供養は必要無いのです。

即身成仏してなかったら浄土真宗でも、供養必要ですよ。

ベストアンサー以外の回答

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hoh********さん

2017/8/609:50:06

どんな人に対してもしません

生き方は人の自由です

仏教は生き方の教えということです

浄土真宗も仏教ですから先祖供養も追善供養もありません

igo********さん

2017/8/317:38:51

生前、南無阿弥陀仏を口にしていない人は浄土真宗の教えを知らなかったのでしょう。

その人が信じる宗教で供養すれば良いでしょう。

仏教の教えは、仏さまと私との一対一の関係です。
生きている私たちは、亡くなられた方の罪をなくすほどの能力はありません。

つまり生きている人が、亡くなった方の穢れを除き、亡くなった方のために善行を積んで智恵を恵み仏にすることはできないということです。

自分が生きている間にさとることもできていないのに、先祖を助ける前に自分の救いのために生きろいうことです。

自分が生きてる間に自らが仏になる道を歩んでいないと、自分の子孫に自分の修行を任せるという理論になりませんか?

生きてる間にさとれば、もちろん、ご先祖のために供養をされると良いでしょう。
先祖供養はしないのではなく、仏になっていないとできないのです。

you********さん

2017/8/219:30:24

墓の石の下に死なれた方の魂とか霊が集まってくるものと思って
おられるのでしょうか?ハッキリしていますか?
新盆や初盆に墓や仏壇、位牌に死人の魂が来ると思っておられるから
このようなご質問をなされたのだと思いますが、

お釈迦さまはそれに関することで死者に対して我々はどうあるべきかを
教えておられますのでお聞きしてみましょう。

お釈迦さまは死人を前で話をされたことは一度もありません。
お経の最初は必ず、どちらかが書かれています。

〇「我聞如是」我、是の如く聞けり
〇「如是我聞」是の如く、我聞けり
いずれもお弟子が「お釈迦さまよりこのように聞きました」と
書き記したものです。
これでお分かりの通りお釈迦さまは生きた人に話をされたことが明白
です。

ある時、お釈迦様に一人の弟子が、「死人のまわりで、有難い経文を
唱えると、死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、本当
でしょうか」と尋ねたことがありました。

その時、お釈迦さまは黙って小石を一個拾われて、近くの池に投げら
れました。
水面に輪を描いて沈んでいった石をお釈迦さまは指さされてこう反論
されました。
「あの池の周りを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながら回れば
石は浮いてくるであろうか、
石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。人間もまた、自業自得に
よって死後の果報が決まるのだ。
経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか」
というのがお釈迦様の教えです。

読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはありま
せんでした。
それどころか、そんな迷信を打ち破って、生きている時に、本当の幸
福、絶対にくずれることのない幸福の身になりなさいよと教え説くの
が仏教なのです。

親鸞聖人の御遺言から知っていただきましょう。改邪鈔にこんなお
言葉が遺されています。

「『某(それがし/親鸞)閉眼せば賀茂川に入れて魚に与うべし』と云
々。これ即ち、この肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべき由の故
なり。これを以て思うにいよいよ葬喪を一大事にすべきに非ず。
最も停止すべし」
肉体の葬式に力を入れずに、魂の葬式、すなわち真剣に仏法を聞い
て本当の幸福、信心獲得(しんじんぎゃくとく)に最も心掛けよ」
※『改邪鈔』覚如上人:親鸞聖人の曾孫さん。

『歎異抄』第五章
『親鸞は父母の孝養のためとて念仏一辺にても申したること未だ候わず』
意訳
「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、一声の念仏も称えたことが
ない」

葬式、法事、読経、墓の建立が死者に対する一番善いことだと世間中の
人が思っていることに対する親鸞聖人の警告のお言葉です。

墓などに死者の霊が来られるものでは絶対にないと、世間の俗信を打ち
破っていられます。

弥陀に救われている人は、死ねば浄土へ生まれて大活動するから、当然
墓石の下などにはいないし、救われていない者は、後生、永く
苦患(クゲン)を受けねばならないから、これまた墓に集まることなどでき
ることではありません。
亡くなった人の霊が墓石に集まってこられるものではないことを、仏教
では明らかに説かれています。

親鸞聖人は、御臨末に、
『我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す』
意訳
「今生の終わりが来たら、私は弥陀の浄土へ帰る」と仰っています。

墓や葬式などを問題にしておられません。平生、弥陀に救われた人に
とっては、墓や遺骨など問題にならないことなのです。
まず、私たちが親や先祖の恩に報いようとする時は、親の最も喜ぶことは
何か、先祖の最も望んでいることは何かということを、よくよく考えるこ
とが第一です。

世の親たちが、子供たちに望んでいることは様々だと思いますが、煎じ詰
めたところ、「子供たちよ、正しく生きてくれ、真の幸福になってもらい
たい」と希求しているのではないでしょうか。
それは、あえて亡くなった親や先祖を呼び出して聞くまでもなく、私たちが
子孫に切望することは唯一つ、「正しく生きよ幸福になれかし」というこ
としかありません。
このことを知れば、私たちが正しく生きて、真の幸福になることが、最も
親や先祖の喜ぶご恩返しになるのです。

では正しく生き抜くには、どうすればよいのか。真実の幸福になるには、
どうすればよいのか。
釈尊は、それには本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞信するしかないことを
生涯、教え続けてゆかれました。

阿弥陀仏の絶対の救いにあずかり、死んでよし生きてよしの、大安心、
大満足になって、苦悩渦巻く人生が光明の広海と転じて、明るく強く、
たくましく生き抜かせて頂く身になることが、最も親や先祖の喜ぶことで
あり、ご恩に報いることになるのです。それ以上の、先祖に対する供養も
親孝行もないのです。
この最も大事なことを忘れて、葬式や法事ばかりに力を入れているのは愚
かなことです。しかし、読経や葬式法事が死人のためになると宣伝して、
生活の糧にしている人たちから猛反発されるのを恐れて、誰も明らかに
しませんから、遺族の人情も後押しして、世間の根強い迷信となってしま
ったのです。

では葬式法事読経は、全く無意味なことかと言いますと、それは勧める人
の精神の如何にかかっています。読まれたお経や正信偈に説かれている教
えを聞かせて頂いて
ますます、弥陀の救いを求めなければならないことを知らされてこそ意味
があるのです。
死んでしまえば、生きている者が、どんなに騒いでも、どうすることもで
きないのです。

参照:「親鸞聖人の花びら」「なぜ生きる」より抜粋。

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