日本の男子の髪型はどのように変化したのでしょうか?

日本の男子の髪型はどのように変化したのでしょうか? 歴史コミックで拝見したところ、弥生時代で髻、奈良時代でお団子ヘア、室町時代でチョンマゲ、明治時代でチョンマゲを断髪されていましたが、実際はどうだったかご存知の方、ご回答お願いします。

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日本の男性の髪型の推移ですね。 ご覧になった歴史コミックがどれなのか気になる所ですが…けっこう各社ごとに時代考証のレベルが違いますからね。 旧石器時代から縄文時代については資料が乏しく、今のところ信用に足る復元は困難でしょう。弥生時代であれば、その終わり近くに、いわゆる魏志倭人伝の記述がありますが、男性の髪型のについての具体的な記述はありません。漫画などで見られる卑弥呼の時代の髪型は、後の時代からの類推でしょう。 古墳時代中期以降であれば埴輪で見られる「美豆良・角髪(みずら)」という髪型が知られています。伸ばした髪を左右に分け、それを耳の前ないし後ろで束ねて折り畳んだたものです。美豆良は古墳から実物の出土例もあります。埴輪などをみると美豆良には年齢や身分によってバリエーションがあったようです。偉い人は髪の束が大きかったようですし、頭頂部の髪を短めに切り束ねずに左右に分け、側頭部の髪は耳の所で束ねて後頭部の髪を束ねて後ろに下ろすようなスタイルもあったようです。また少年の髪型は美豆良ではなかったようで、「束髪於額(ひさごはな)」や「角子(あげまき)」と呼ばれる髪型だったと『日本書紀』巻第二十一 崇峻天皇即位前紀にあります。少年時代の聖徳太子が束髪於額をしていたとあるのですが、これが具体的にどのような形だったのかはわかっていません。 飛鳥時代の後期になると頭上に「髻(もとどり)」を作るようになりました。『日本書紀』巻二十九 天武天皇下 十一年四月の条に、男女とも結髪するようにと命令が出されたとあり、六月になって初めて結髪して中国風の冠をかぶったと書かれています。これがosu2006graduationさんのおっしゃるお団子ヘアです。それまでの美豆良は子供の髪型として生き残ったようです。 この後、被りものでこの髻を隠すようにする中国の習慣も日本に定着していったと考えられています。髻を見せることを恥ずかしい事とする意識のため、古代〜中世の男性の髪型に関する絵画資料は乏しいのですが、絵巻物を見るとこのお団子ヘアは鎌倉時代頃まであったようです。鎌倉時代成立と考えられる『長谷雄草紙』には烏帽子を被らずお団子ヘアの庶民男性が描かれています。 奈良時代〜平安時代初期の貴族や役人たちはこのお団子の上に巾子(こじ)という網状のものを被せて髪を整え、その上から柔らかな冠をかぶっていました。中国ではこの巾子の形でお洒落をしていたようですから日本でも同様だったのでしょう。(平安時代前期には平安京の市に巾子の専門店がありました。) 平安時代中期頃になると、お団子を作らない髻も現れたようです。「冠下一髻」とか「冠下の髻」「巻立」などと呼ばれる髪型で、頭頂部で髪を束ねて紐で巻いて立たせるようにしたものです。この髪型は平安時代中期に描かれた『相撲人画巻』の力士の髪型や、平安時代末期〜鎌倉時代初頭成立の『伴大納言絵詞』の清和天皇の髪型として描かれています。この髪型では巾子はかぶれません。冠と巾子が一体化し、かんざしで左右から髻を刺し貫いて頭に固定する日本風の冠が成立したのはこの時代でした。冠下一髻は歌舞伎や時代劇では貴族や有力な戦国大名のアイコンとして機能しているので何処かで目にしたことがあるはずです。冠をかぶるときに結う髪型ですからこの髪型イコール超偉い人なわかけです。 また、「烏帽子下」という髪型も知られています。これは冠下一髻とほとんど同じですが、髻を巻いて立てる高さが低めのもので、貴族から庶民まで烏帽子をかぶるときに結われた髪型です。烏帽子はこの髻に紐で結びつけたりピンで留めたりして固定していました。また『伴大納言絵詞』や『粉河寺縁起絵巻』などを見ると、作業の際は烏帽子の上から紐で髻に括り付けて固定したりもしたようです。鎌倉時代頃になると武士たちは折烏帽子の上から顎紐を結びました(「頂頭掛(ちょうずがけ)」といいます)。 冠下一髻や烏帽子下は貴族達の髪型として明治の初めまで続きました。 平安時代中期以降、美豆良よりも子供の髪型として一般的だったのは、単に伸ばして下ろした髪「垂髪」を後頭部や項のあたりでまとめた髪型です。元服の際に大人になた証として頭上に髻を作ったのです。子供扱いされていた牛飼童などはこのような髪型で、大人でも髻を作らず烏帽子もかぶりませんでした。 先にも述べましたが平安時代中期〜室町時代中期、いわゆる中世の男性達は髻を見せないのがマナーで、髪型のわかる絵画資料も少ないのですが、その少ない資料を見ますと所々に冠下髻や烏帽子下以外の髪型が散見されます。雑兵などが好んだ頭上で丸く髪を束ねた髪型や(『北野天神縁起絵巻』『法然上人絵伝』『春日権現験記』など)、僧院の稚児や若侍に見られる髪の束を二つに降り畳んだ髪型(『法然上人絵伝』など)、やはり寺院の稚児や武家の若党が好んだ「唐輪(からわ)」という髪型などがあります(『後三年合戦絵巻』『法然上人絵伝』、『太平記』巻二 年十五六許なる小児の髪唐輪に上げたるが…)。また、低く結った烏帽子下を後ろに垂らした「たぶさ」と呼ばれる髪型も見られました。 この頃の男性の髪型で重要な変化は「月代(さかやき)」の出現です。これは前頭部の髪を抜いたり剃ったりしたもので、戦のとき兜で頭が蒸れなようにするのが当初の目的でした。文献的には平安時代末期の『玉葉』が初出です。江戸時代と違ってこの頃の月代は戦時にのみいれるもので、平時には行わないのが普通でした。 室町時代後期になると徐々に烏帽子などの被り物をしない露頂(ろちょう)が一般的になっていきました。戦乱が相次ぎ、恒常的に大きな月代を作るようになったので、従来の烏帽子がかぶりにくなったことが大きな要因です。また簡素なものを良しとした風潮も露頂の風俗を後押ししました。 また、月代の拡大化によって髻の位置は頭頂部から後頭部に移動しました。そして戦国時代になると如何にも戦国時代らしい茶筅髷が現れました。茶筅髷は冠下や烏帽子下から生まれたと考えられますが、冠下は垂直に立てていたのに対し、茶筅髷はほぼ水平に伸びていたという違いがあります。また、後頭部の髻の先の髪が下に垂れる事を嫌って上に折り返したところから「二ツ折」髷が現れました。戦国時代には茶筅髷よりも折髷の方が正装だったようで、織田信長が斎藤道三に面会した時は茶筅髷から折髷に結い直したそうです(『信長公記』)。織田信長や前田利家など戦国大名の肖像画の多くは折髷で描かれています。 江戸時代になると月代を剃って折髷を結うスタイルが一般的になり、徐々に茶筅髷は結われなくなっていきました。 江戸時代の髪型は流行が目まぐるしく変化しましたのでまとめにくいのですが、前期は総じて月代が大きめでした。また若衆髷や野郎髷などの若年者の髷は大きく長い特徴がありましたが、元禄以降は逆に小さな髷が好まれるようになりました。女性の髪型もそうでしたが、後頭部の髪である髱(たぼ・つと)が後ろに突き出したものがお洒落とされたこともあったようです。鬢付け油で髪を整えるようになったのはこの頃からです。 江戸中期は大きな月代が続きましたが、髱はあまり突き出しません。ここでは細かく述べませんが、髷の部分は辰松風や文金風、本田風など色々あり、技巧を凝らして結い上げました。 江戸時代後期になると月代はそれ以前より狭くなり、時代劇でおなじみのヘアスタイルになります。この時代の武士の月代は総じて狭めの傾向にありましたが、幕末頃には武士の中には極端に月代を細くしたり、月代を剃らない総髪の者もありました。 長々と述べたので分かりづらくなってしまったかもしれませんが、 何かの参考になれば幸いです。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2017/8/16 23:09

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