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議論が得意な人!!!

jpj********さん

2017/8/1211:00:05

議論が得意な人!!!

自然破壊や反出世主義などで生命を否定した場合に反対派の人が「自然や生命や生きることが嫌なら自殺しろ」と言われたとします。


#生命や人生全般が嫌い→人生や生命自体を否定する。
#の否定の為に死を享受しないと意見にならない、もしくは生命を否定した場合に死ななくては行けないと言うのは論理的に正しくないですよね??

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ベストアンサーに選ばれた回答

2017/8/1616:12:38

いやまず、自然破壊ならVS「人類」の「発展経済」とか
「産業(生産・消費)」と主客を明示しないと。

個人と人類を混同してはハチャメチャになる。

反出世主義(?)ならVS個人的価値観の「社会の歯車になるの嫌だ」とか、
「力は正義って価値観止めて欲しい、個人の幸せ追及を一義に考えて何が
悪い」とか、かな?

これらはこの先に膨大な議論点の分岐がある。
社会の経済発展がイコール全人類の幸福追求の唯一の方法なのかを
議論したりね。

その次には、幸せって何だっけ?を論じる段階があって、
個人個人の幸福感の違い、集団になった場合の幸せの意味、
更には小さな集団レベルの幸せの意味、概ね統一的に決められた
(皆、そう思うだろ?的な)価値観を区分して考えないと。

更にその集団が属する上位の組織が規定する幸福の価値観
などなど、横にも広がりがあり上下のヒエラルキー
(偉さのピラミッド的階層構造)でその幸福についての定義や
価値観が変わっていくこと、を逐次議論して行く必要が出てくる。

ついでに言えば、それらの価値観が相反することも多い。

だから戦争が起きる。

一つの社会組織の中に、対立する複数の集団が存在するわけで、
これらの間で合意に達する共通認識となる統合価値観を決めないと
ケンカになるばかり。

議論は平行線だ。

更に「生命」を云々という領域まで話を拡げると、人は何故生まれて
生きるのか。どうせ皆死ぬのに。とか、

下々の人間は何一つ足跡をこの世に残すことなく消えていくのに
生きることにも死ぬことにも意義などあるのか、という議論を
要する。

例えば、生命についての議論的アプローチは、科学/宗教/心理/
経済格差/地域格差/人種格差など、数え上げればキリがない
様々な切り口がある。

これらをごちゃまぜにして議論することはナンセンスの極みだ。

科学の中でも、例えば分子生物学の目で生死を考えれば、
遺伝形質の伝達のみを目的にした遺伝子の振る舞いに、
その意味は集約される。

また、進化論から考えれば、環境に対応して生き残る
遺伝言語の文法や文脈から生きること・死ぬことの意味は
説かれるだろう。

宗教であれば、兎に角「神」に従えば極楽浄土で永遠の幸せが、
という、現実社会からの究極の逃避を生命の昇華と言い換えるだろう。

生きている限りは対峙しなければならない、老病災厄様々な苦しみに
天国行のパスポートみたいな意義を与えて信者達を思考停止させ、
布教することになる。

長くなるので割愛するが、これが個人個人の鬱憤だとか、
本人が自覚していない、或は自覚を拒絶している
「成長至上主義」とか「自己批判の果ての疲弊」だとか、
自分が属する集団になじめない孤独、それらは結局個人的な
事情であることを区分して考える必要がある。

冒頭に書いた、社会が云々などというマクロな話と違って、
個々に問題解決する方策があるのに、結局のところヘタレは
ヘタレであり、無能は無能、愚か者は簡単には賢者になれない
ことが多過ぎる。

個人的事情や自分と言う存在の非力さ、自分の活かし方に
方針一つ絶たずに当て所なく暗闇の砂漠を彷徨するしかない。

弱い自分、について向き合う勇気の無さを、まるで自分が
社会的な被害者のように振る舞うことで、努力しないことの
言い訳と免罪符を手に入れようとする個人的感情。

それらは、自助努力からの逃避の一種なので「社会に抑圧されて、
本来の自分の能力や存在意義が発揮できない」的な言い回しに
ついついなりがちである。

実際の社会的抑圧は、虐げられた人々を具体的に考えることで
その対立構造として議論されるべきものだが、この虐げられた
人々、を上手く生きることが出来ない自分、という個人と
混同すると話はグチャグチャになる。

何故なら、「ではどうすればより幸せになれるか」という
方法論で考えた時に、「虐げられた人々への社会的抑圧」は
制度を考え直す、という方法論に結びつく。

しかし、個人に対して社会が個別対応する規定を造ることは
あり得ないからだ。

それは不可能である。

ある程度の人数が揃い、社会的弱者集団として法的に規定されて
始めて、その処遇についての法整備や手続きその他の具体的な
組織運営手法という話に昇華する。

個々人に対して社会が独自対応出来ないというのは、一つには
上に書いたように物理的に無理ということ(何万人用の、一回限りの
法律や手続きなど不可能だから。)

その他に、社会が対応すべき問題なのか、個人的な事情や能力・
自己中心的な価値観などで生じている問題が中心なら、それは
社会ではなく個人が自己責任で片づけるべき、というジレンマが
生じるからだ。

個人の責任に帰属する「不幸」は、一義的に社会運営側の責任が
問えない問題であることが多過ぎる、ということだ。

簡単に言えば、パチンコ狂いで借金しまくって地獄に陥る人は、
社会が助ける義務なんてあるのかな?、いや、無いだろう。

という話なのだ。

長くなるのでこの辺で纏めるが、要は個人の話と社会の話を
混同しないようにするべきだということ、そして価値観や
行動規範について、常に誰に責任があるか、義務があるかを
最優先で考えないと権利ばかりを盲目的に求め、それが
得られないから社会は悪だと決めつける視野狭窄を起こすから。

誰が、誰に、どこで、何を、どうして、何時、何故、等々。

それらをきちんと区別して考えないと、こんなに膨大な要素が
絡み合う問題はカオスにしかならなくなる。

きちんと一つ一つを別々なモノとして区別し、他人の価値観と
自分の価値観を丁寧に言葉違わず摺り合わせていく。

こういう、共通認識を丁寧に積み上げていく所作が無ければ
議論は感情的になり、盲目的に賛否を問うか、敵を殲滅するが
ごとき絶対的排他しか生まれなくなる。

丁寧に話や要素を分けて別々のこと、として扱う事と、言葉一つで
同義であるはずのものが対立して喧嘩になるので、相手の言葉を
丁寧に区分・整理・確認、また自分の言葉に置換して相手の
承認を取るなどの手間のかかる作業の果てに、始めて共に
「議論」出来る下地が生まれる。

言い換えれば、相手方と共同作業で、これらの区分や整理、
解釈の共有化などを積み上げていく作業こそ、議論、と
称されるべき知的活動だと私は思います。

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