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ソ連崩壊後ユーゴスラビアが内戦になったのは一体何故でしょうか。確か内戦を理由...

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ID非公開さん

2017/8/2420:26:49

ソ連崩壊後ユーゴスラビアが内戦になったのは一体何故でしょうか。確か内戦を理由にバルセロナ五輪にクロアチア選手団の出場が認められたのに対してユーゴスラビア選手団をバルセロナ五輪の舞台から締め出したのは一

体何故?


一体どのようにして解決したのでしょうか。


その後、今現在は唯一残ったセルビア地域とモンテネグロ地域が分離独立したのは一体何故でしょうか。

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tak********さん

2017/8/2421:18:23

元々ユーゴスラビア連邦は「南スラブ人の土地」を意味し南スラブ人の連合国家です。『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』から表すように元々バラバラの人々が英雄チトーの元に結束していたに過ぎません。


元々クロアチア、スロベニアはオーストリアの支配下の元、発展した先進国でした。後進国のセルビアをクロアチア出身のパルチザンの英雄チトー(パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。)が大統領についていたことでなんとか均衡を保つことができていたのです。
しかし、1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。
東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。

ユーゴスラビアの崩壊
1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷
1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。西ドイツのハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外務大臣は同年9月4日に欧州共同体内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。 フランク・ウンバッハはドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている 。

セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。

第三のユーゴスラビア

1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの国際戦犯法廷に引き渡されたが無罪判決と成った。



>確か内戦を理由にバルセロナ五輪にクロアチア選手団の出場が認められたのに対してユーゴスラビア選手団をバルセロナ五輪の舞台から締め出したのは一体何故?

1991年に勃発したユーゴスラビア紛争にともなうユーゴ解体の動きの中で、1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。当時、同国には約430万人が住んでいたが、そのうち44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在していた。ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化。独立宣言の翌月には軍事衝突に発展した。
およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、セルビア人によるボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

そのためセルビア人勢力を支援したユーゴスラビアはバルセロナ五輪の舞台から締め出された。

>一体どのようにして解決したのでしょうか。
これによってユーゴスラビアを構成していた6共和国はばらばらに解体される事になった。

>その後、今現在は唯一残ったセルビア地域とモンテネグロ地域が分離独立したのは一体何故でしょうか。

一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営される事になり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設ける事を提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結する事を条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

元々ユーゴスラビア連邦は「南スラブ人の土地」を意味し南スラブ人の連合国家です。『七つの国境、六つの共和国、五つの民...

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    質問者

    ID非公開さん

    2017/8/2421:25:35

    非常に詳しいお返事をいただきどうもありがとうございます。

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kii********さん

2017/8/2504:33:30

クロアチア人とセルビア人の対立の歴史は長く、そして深いです。
ユーゴ紛争の間接的ながらも大きな原因となったのは、第二次大戦中のクロアチア民族主義者(ウスタシャ)がクロアチア内に住むセルビア人を虐殺して回ったことでしょう。

チトーが死んでユーゴのタガが緩んでいた頃、西側陣営はクロアチアに対し陰に陽に働きかけ、西側に引っ張ります。
それまで東西陣営から孤立していたユーゴは絶妙なバランスで緩衝地帯として機能していましたが、クロアチアとボスニアは急速に西側に傾いていました。

その一方で、ユーゴ崩壊の危機感を強めていたセルビアは、その国内の他民族の自治州の自決権を事実上無視する憲法改正を行ったことから、他民族の強い反感を買います。それまでにもセルビアは他民族の積立金を勝手に流用してセルビア人に配布するなど横暴を重ねていた。

ここで、ユーゴを含む他民族対セルビアという対立構図が明確に浮かび上がり、ユーゴ共産党は1990年5月の党大会で決裂、二つに分裂します。
これがベルリンの壁崩壊からわずか2ヶ月後であったことは偶然ではないでしょう。
共産主義の限界、汎スラブ主義の完全なる死亡によって、最後に残っていた精神的拘束力が切れてしまったのだと思います。

セルビアはここで、民族独立を掲げ動き始めたクロアチアに強い警戒感を示します。忌まわしいウスタシャによる惨劇が繰り返されるのでは、と懸念したからです。まあ、その予想は的中したんですが。
その後のユーゴ解体のプロセスは他の回答者さんが詳細に記されてますので譲りますが、オリンピックの件は少し違います。

ユーゴ解体が進むにつれ、戦争は新たな局面を迎えます。
ボスニア共和国がアメリカの民間PR会社と契約し、セルビアのイメージダウンを図って自国の正当化を国際社会で印象付けようとしたのです。
この広告会社はセルビアに不利な情報を誇大化して世界中のテレビ局に映像を売りまくります。
今となってはそれが真実であったのかやらせであったのか解らないのが現実ですが(当然、セルビアは否定していた)、この戦略は大成功を収め(背後にCIAがいたのは間違いないです)世界世論は「極悪ユーゴ共産党(セルビア)に果敢に自由のための戦いを挑むボスニア人(とクロアチア人)」、という構図になった。
そのため、セルビアが主幹であるユーゴは悪とされ、西側寄りのクロアチアとボスニアは善とされたわけです。
実際は両陣営とも同じことをやっていたわけで、どっちが悪いということもないのですが、これも一つの戦争の形ですね。まあ、西側の方がこの手の戦いは一枚も二枚も上手だったわけです。

その後、ユーゴはどんどん解体されていき、最終的に、クロアチアは悲願のEU加盟を果たしてハッピーエンド・・・とはなりませんでした。
そもそも、クロアチアやボスニアは旧ハプスブルグ家領で、いわば西側。
ようやく独立を果たすと、一時期隔絶していたそれら西側の資本が怒涛のように流入し、そもそも脆弱だった金融や地場産業は消滅、完全に西側企業の経済奴隷と化してしまった。
めぼしい産業は観光業のみで、経済は低迷し失業率は高く、優秀な頭脳は他のEU各国に流出し続けるという惨憺たる状況です。
また、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境が明確でないことから、EUへは法的な制約のある限定的で不利な加盟であり、加盟したメリットはほぼ皆無に等しい。

一方のセルビアも、現在でもコソボ独立の火種はくすぶり続け、解決には程遠い状況です。

kst********さん

2017/8/2420:42:29

もともと成立直後から内紛の絶えない国でした。特にクロアチア人とセルビア人が仲悪すぎる。なお、第二次大戦中も内戦をしてます。

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