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世界史Bについての質問です。イタリア戦争からスペインの全盛期まででよく分からな...

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ID非公開さん

2017/10/1016:19:03

世界史Bについての質問です。イタリア戦争からスペインの全盛期まででよく分からないことがあります。

①「1494年、フランス王がイタリアに侵入すると、神聖ローマ帝国がこれに敵対してイタリア戦争がおこった」
なぜフランスがイタリアに侵入することでドイツが敵対するのですか。
②「1519年に、ハプスブルク家のスペイン王カルロス一世が神聖ローマ皇帝カール5世として選出」
ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位なのになぜスペイン王がいるのですか。
③オーストリアのハプスブルク家は15世紀後半にネーデルラントを婚姻関係をつうじて獲得し、さらにスペイン王位も継承」
オーストリアのハプスブルク家とは何ですか。神聖ローマ帝国位ではないのですか。②のハプスブルク家とは違うのでしょうか。同じならば②で既にスペイン王がいると思うのですが。
④「1566年、カルロス一世が退位するとハプスブル家はスペイン系とオーストリア系に分かれた」②と③のハプスブルク家が異なるならば可笑しいと思います。カルロス一世のときにスペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家が存在しているので退位する前から分かれているのではないですか。

いまいち、○○家というのが理解できていません。なぜ、こんなにも色々な国でハプスブルク家がいるのですか。

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r_a********さん

2017/10/1019:10:12

この話しの発端は、(3)の、ハプスブルク家がネーデルラントを婚姻関係を通じて獲得したことで、フランスと対立することから始まります。

●フランス王とブルゴーニュ公家との戦い
発端は、フランスの内乱からです。フランスは百年戦争の後、ジャンヌ=ダルクに助けられたシャルル7世(勝利王)の死後、その子のルイ11世が王位につきます。が、王家の分家のブルゴーニュ公家のシャルル(突進公)が歯向かいます。
ブルゴーニュ公家はフランスのブルゴーニュ地方に加え、ネーデルラント(現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク)も領地として繁栄していました。

●ハプスブルク家マクシミリアンの婿入り
この二人の抗争は10年あまり続いても決着がつかず、後継者が問題となります。ルイ11世には息子のシャルル8世が生まれましたが、シャルル突進公には男子が生まれず娘のマリーしかいません。ルイ11世は、マリーを息子の嫁、つまりフランス王太子妃に、と提案しますが、突進公がこれを拒否し、娘婿に選んだのは、神聖ローマ帝国の無力な皇帝、ハプスブルク家のフリードリヒ3世(帝国の大愚図と呼ばれました)の息子でした。(皇帝の息子を婿にすることで、自分が皇帝なれると考えました)
この時、ハプスブルク家は、現在のオーストリアの一部を領有するだけで、落ちぶれていましたので、皇帝としては息子をブルターニュ家に婿入りさせるのは大歓迎でした。

●フランス王とハプスブルク家の戦いの始まり
が、この結婚が決まった直後、シャルル突進公は無謀な戦いで戦死し、マリーはフランス王太子よりも、親の決めた結婚相手である皇帝の息子マクシミリアンを選び、1477年に結婚します。
この二人の間に1男1女が生まれ、ブルゴーニュ家の領地であるネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルク)とハプスブルク家の両方を相続することになります。(この男子がスペイン王女ファナを妃に迎え、スペイン王で皇帝のカルロス1世が生まれます。皇帝としてはドイツ語読みでカール5世となりますが、同一人物です)

ネーデルラントに後継者が生まれたことで、フランス王ルイ11世は出兵して手に入れようとしますが、マクシミリアンは有能でフランス軍を破ります。(1479年ギネガテの戦い)が、その後、マリーが落馬事故で死亡すると、ネーデルラントの各都市は、マリーの子を君主と認めますが、マクシミリアンの後見は不要として、対立します。
この状況に付け込んだルイ11世は、先の戦いの和議を持ち掛けます。条件は、マリーとマクシミリアンの娘をフランス皇太子と婚約しフランスで養育すること、ブルゴーニュ家の領地のうちブルゴーニュ地方(既にフランスが占領していた)をフランスのものと認めることです。
各都市の反乱に直面したマクシミリアンには、この和議を拒むことが出来ず、3歳の娘はフランスへと送られます。マクシミリアンは、必ず娘を取り返そうとフランスとの戦いを決意します。
これがハプスブルク家とフランス王との戦いの発端となり、1756年の外交革命まで続きます。

●ハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世
この頃、ハンガリーが神聖ローマ帝国を侵略し、ウィーンも陥落します。現在のオーストリアの半分ほどがハンガリー王に占領されますが、無能な皇帝は逃げ回るだけでした。戦える皇帝が必要となり、帝国の選帝侯は、フランスに勝った経験のあるマクシミリアンを次の皇帝に選びます。
以降、マリーとマクシミリアンの子孫は、ハプスブルク家の当主として、代々神聖ローマ帝国の皇帝の地位を占め、フランスやオスマン帝国と戦い続けることになります。(ちなみにフランス革命で有名なマリー・アントワネットは、マリーとマクシミリアンの曾孫の曾孫の曾孫にあたります)

その後の皇帝マクシミリアン1世ですが、オーストリア奪還・ウィーン解放、さらにハンガリー侵攻を優位に進め、オーストリアの大半をハプスブルク家の領地とします。
また、フランスとも戦って娘を取り返し、商人のフッガー家に鉱山の採掘権を与え、戦いの資金を調達します。フッガー家は皇帝との繋がりからローマ教皇にも取り入り、後の贖宥状販売に関わります。(宗教改革の原因となります)

●ハプスブルク家とスペイン王家との二重結婚
イスラームのオスマン帝国との戦いを検討していたスペイン王は、皇帝と関係を深め、二重結婚つまりスペイン王女のファナを、マクシミリアンの息子のフィリップと結婚、マクシミリアンの娘(フランスから取り返した)をスペイン王太子の妃にします。
この結婚により、フランスは東を神聖ローマ帝国、西南をスペインと挟まれる形になり、ハプスブルク家を脅威と考え、その対抗策としての意味もあって、イタリア戦争(1494年)を始めます。
が、スペインの王太子が病死したため(1497年)、スペイン王女のファナが王位を継承、夫のフィリップとスペインに移住しますが、フィリップも病死すると、ファナは精神を病み、二人の息子のカルロス一世がスペイン王となります。

こうしてハプスブルク家は婚姻を通じて、ネーデルラントに加え、スペインの王位も獲得します。

(1)イタリア戦争は、1494年にフランス王シャルル8世がナポリ王の地位の継承を主張し、大軍を率いてイタリアを縦断、ナポリを陥落させたことから始まります。
このフランスに対して、ヴェネツィア・教皇・神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世・スペイン・ミラノが神聖同盟を結ぶと、シャルル8世は守備部隊を残して撤退し、主にヴェネツィア軍が追撃して打撃を与えました。(シャルル8世は、フランスに帰国後の1498年、城の鴨居に頭をぶつけて死去、王位はフランソワ1世が継ぎます)
これが第一次イタリア戦争です。
フランス王がイタリアに侵入したところで神聖ローマ帝国(ドイツ)が関わりあう必要ありません。
皇帝マクシミリアン1世は、過去の経緯からフランスと戦いたがっていましたが、神聖ローマ帝国の諸侯は全く協力しようとせず、むしろ帝国内の改革を優先するようと要求し、結局、皇帝は実際の戦いには参加できませんでした。

(2)1519年にマクシミリアン1世が60歳で病死すると、皇帝位を孫のスペイン王カルロス1世に継承させるよう遺言します。これに対して、フランス王のフランソワ1世が神聖ローマ皇帝選挙に立候補し、買収工作合戦となります。ハプスブルク家はフッガー家から資金を調達して皇帝位を獲得します。こうしてスペイン王にして神聖ローマ皇帝カール5世が誕生します。
(カールはドイツ語読みで、スペイン語読みだとカルロス、仏語読みだとシャルルで、皇帝になりたがっていた曾祖父のシャルル突進公にちなんで名付けられました)

(4)皇帝カール5世は宗教改革の調停に、フランス王との戦い、さらにフランスと同盟したオスマン帝国との戦い(第一次ウィーン攻囲)に激動の生涯を送ります。
1556年に疲れ果てたカール5世は退位し、皇帝の位とオーストリアの領地は弟のフェルディナントに譲り、スペイン王位とネーデルラントの領地は息子のフェリペ二世に譲ります。
こうして、ハプスブルク家はオーストリア=ハプスブルク家と、スペイン=ハプスブルク家に分かれます。

以上です。長文失礼!

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質問した人からのコメント

2017/10/15 02:37:38

皆様、分かりやすい回答ありがとうございました。

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mek********さん

2017/10/1018:40:12

オーストリアとはハプスブルク家の伝統的な所領のこと。現在のオーストリア・ハンガリー・チェコ・スロバキアに相当する広大な領域でありますが、代々世襲していた私有財産だと考えてください。そういう強大化した封建領主の家系がハプスブルク家なのです。この内、オーストリアは神聖ローマ帝国の一部で、昔々神聖ローマ皇帝から貰った領土で、ハンガリー・チェコ・スロバキアは神聖ローマ帝国とは全く無関係にハプスブルク家独自の努力で所領に加えた地域です。私有財産なのでオーストリア王が死去するとしかるべき後継者に相続することになります。そうしてハプスブルク家はオーストリアを守ってきた家系なのです。ハプスブルク家は多産の家系なので、皇后もまたハプスブル家一族から迎えています。多産の家系なので、どの代も10人前後の子供が生まれる。一人や二人、夭折しても家系が絶えることはない。そうして生まれた娘を他家に嫁に出せばヨーロッパ中が親戚みたいなことになるのです。

ここで一旦神聖ローマ帝国に話を戻します。神聖ローマ皇帝は世襲じゃなく選帝侯と呼ばれる7人の有力貴族の選挙で選出されます。つまりハプスブルク家の所領ではありません。誰が神聖ローマ皇帝に選ばれるかは選挙をしてみないとわかりません。

次に王位継承の仕組みを説明します。原則的にサリカ法によって王位継承権は男系男子に限定されます。男子が生まれ成人すれば後継者になります。ところでキリスト教には側室制度がありません。また子供が生まれないとしても離婚は許されません。したがって直系は非常に断絶しやすい。直系が断絶すると他家の人間であっても王位継承権を持つ男子を探し出して後継者にするしかないのです。キリスト教なので下克上で家臣が主君の所領を横領するといったことは認められません。

以上論じたようにハプスブルク家は外国の王位継承権を持っていることが非常に多かったのです。実際に王位継承権を発動する機会があるかどうかは別問題ですが。

ここまで話についてこられますかな。とりあえず今回はここまで。

rhy********さん

2017/10/1017:55:10

細かいところを色々見て行く前に、いくつかの前提条件を理解しておく必要があります。

A. どこかの国の王様が、さらに別の国の王位継承権を持っていることがある
B. 同一人物が複数の国王になることがあり得る

Aはわかりやすいですね。江戸幕府の8代将軍吉宗は、将軍位につく前は紀州藩の5代藩主でした。それと同じことです。

Bは日本では若干馴染みが薄いかもですが、例えば、イギリスの王位継承順位68位にノルウェー国王のハーラル5世がいます。可能性は低いですが、仮にハーラル5世がイギリス王位につく時に、ノルウェー国王を退位しなければならない、というルールがなければ、同時に2つの国の王になります。

江戸幕府の慣例では藩主が将軍位につくと出身の藩が廃藩になるのが慣例でしたが、吉宗は紀州藩主をおりて紀州藩を継承させ、将軍位に着きました。藩主が将軍位つくことがあるというルールになっていなかった、ということです。

ここまでが感覚的にわからないと、なかなか先に進まないので…

その上で、ご質問になりますが

ハプスブルク家は元々はスイスに領地を持つ、神聖ローマ帝国の一貴族でしたが、13世紀のルドルフ1世の時にローマ王位を得ます。皇帝位を得ます。その後15世紀のフリードリヒ3世の時にローマ王位を世襲化することに成功し、16世紀に入ってマクシミリアン1世の時に教皇から戴冠を受けずに皇帝位を名乗り始めます。ハプスブルク家はその歴史の中でスイス内の領地を徐々に失っていき、オーストリアに地盤を固めて行っています。

ハプスブルク家の政策の特徴は「戦争は他に任せよ。幸いなるオーストリアよ。汝は結婚せよ」という言葉で語られるくらいな婚姻政策でした。これによってヨーロッパ中のあちこちの国に王位継承権者を作っていきます。②はスペイン・ハプスブルク朝で王位についていたカルロス1世が、いわば宗家に当たるオーストリアのハプスブルク家も合わせて継承し、神聖ローマ帝国カール5世として皇帝位についたというものになります。

この頃ともなると「ハプスブルク家は何人である」とは言いがたいほどあちこちの血が入り混じっており、カルロス1世については、所領的地盤は母から相続したスペインが中心だが、育ちは低地諸国(オランダとか)であり、といった状況。「どこの国のハプスブルク家」という言葉が当てはまらないような、「多国籍な家」になっています。

カルロス1世(カール5世)は、オーストリアの所領を弟のフェルディナント1世と分割相続して受け取っており、スペインの方の所領は息子のフェリペ2世に相続させています。さらに1549年の協定で、神聖ローマ皇帝位はフェルディナント1世の家系に継承させることを定めています。これによって、カルロス1世(カール5世)の死後に、スペイン系とオーストリア系とで家系が別れることが形式的にも明確になっています。

②から④はこういった事情です

①についてですが、元々神聖ローマ帝国は、ローマ教皇から戴冠を受けることで「皇帝位」を得る「ローマ帝国」の後継国家である、という位置付けにあります(戴冠を受けなければ名乗りは「ローマ王」となる。マクシミリアン1世までは)。15世紀末にフランス王がイタリア侵攻するにあたっては、ローマ教皇の主導のもと、神聖ローマ帝国などが加わる神聖同盟が締結され、フランスに対抗しています(イタリア戦争と神聖同盟)。フランスのイタリア侵攻にドイツが介入する、というよりは、教皇領のある「イタリア」という場所をめぐる、フランスと教皇の争いに、教皇との関係性の深い神聖ローマ帝国が関与する、という関係の方が捉えやすいと思います。歴史的にはチェザーレ・ボルジアと教皇領の拡大の時期でもあるので、チェザーレ側から見た方がわかりやすいかもしれません。

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