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関ヶ原の戦いで敗北した石田三成が斬首となったことと、東京裁判でA級戦犯として東...

kok********さん

2017/11/1120:24:09

関ヶ原の戦いで敗北した石田三成が斬首となったことと、東京裁判でA級戦犯として東条英機らが死罪となったことは似たようなものでしょうか?

石田三成は関ヶ原の戦いで敗走したのちに斬首となりますが、彼の挙兵は力を増す徳川を警戒し豊臣家を護るためのものだったわけですから、淀殿や北政所、毛利輝元らが三成を擁護してあげても良かったのではと思います(薄情なのではなく、「お前も謀反人の味方をするのか」と思われてしまうためにできなかったのだと思います)。

三成が関ヶ原の戦いで敗北が決定的となっても自刃をせず逃走したのは、再起を図るという目的もありますが、どうしても挽回が見込めないときは豊臣家に累が及ばないように「すべて自分が独断で起こしたこと」と証言するつもりだったのではないでしょうか。だから雑兵の手にかかって死ぬことはできなかったのだと考えます。大谷吉継の場合は自力での逃走は困難だったのでしょうね。

東京裁判での東条英機や広田弘毅らも、刑が決まってからは、日本に問われるであろう責任を少しでも自分が背負って持っていこうとしていたのではと感じます。

国家転覆は昔から重罪ですが、豊臣政権は泰平の世とするには不完全な組織だったと言えます。石田三成がやったことを正義とすると、世の中はテロ行為だらけになってしまいますが、彼の行為はやはり徹頭徹尾豊臣家のためだったといえるのではないでしょうか。

詳しい方がいらっしゃったらご意見をお聞きしたいです。
ちなみにこの時代を扱っている司馬遼太郎の小説や、それを元とした映画等は読んだり観たりしたことはまだありません。

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ベストアンサーに選ばれた回答

sft********さん

2017/11/1802:32:50

三成の挙兵は、三成本人を中心に、一部の五奉行や武将達が結託して勝手にやった一種のクーデターです。しかもそれを起こした三成の動機は、豊臣家や義の為というよりも、家康への個人的私怨や己自身の美学による行動といったもので、客観的に見れば褒められたものではありません。直江兼続以外では、誰も三成に家康を倒してくれなんて頼んでいませんし、むしろ余計な波風を立てるような真似をされた事に迷惑とさえ思っている人間もいたと思います。おまけに関ヶ原で西軍側についた武将達の大半は、半ばなし崩し的に協力させられたと言うべきで、断じて三成の考えに同調した訳ではありません。西軍側を裏切った小早川秀秋も自分を散々な目に遭わせた三成を信用する訳ありませんし、確実に勝つ為であった夜襲の提案を無碍にされた島津義弘も、三成の我侭には付き合いきれないと思い、動こうとしなかったのでしょう。どう考えても、傍迷惑な騒動を起こした三成の方に非がある以上、北政所が庇う理由などありませんし、巻き込まれただけの淀殿も同じだったと思います。毛利輝元に至っては、秀吉の死から僅か10日後で三成達と起請文を交わす遺命破りに出た挙句、家臣達にロクに相談せず三成に加担した結果、吉川広家を始めとする家臣達に反発された事で、自らの行いに後悔し、密かに広家を通じて家康と内通する様になったのですから、やはり三成を庇う訳にはいきません。三成が自分自身の考えで挙兵をやり敗北した以上、反逆罪として斬首刑で責任を取るのは当然の事で、逆に三成が家康に勝ったとすれば、三成は絶対に家康を斬首刑にして、自らの行いを「正義の弾劾」として世に知らしめようとしたでしょう。三成の行動が、後の豊臣家の滅亡や、多くの諸大名の人生が滅茶苦茶になってしまった遠因になった事も考えれば、同情の余地はまずありません。

質問した人からのコメント

2017/11/18 19:24:15

三成としては豊臣家を護ろうとしていたのだろうと考えます。しかし他の大名や武将から支持を得られなかったのが残念です。
ご回答ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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yan********さん

2017/11/1420:52:38

共通している点はありますよ、即ち何れも忠臣でした。

rei********さん

2017/11/1121:27:02

まったく違います。

白人主体の連合国の法治厳罰主義と、武士のけじめ、は同じにあつかうべきものではありません。

2017/11/1120:52:30

北政所にとっては、すでに豊臣家は淀殿に奪われている。

むしろ、家康や秀忠のほうが、自分のことを大切にしてくれる。
なので、北政所は加藤清正に対しても、福島正則に対しても家臣の間でもめ事が起きた時には家康側にたつよう、助言していたそうです。

淀殿としては、関ヶ原の戦いは、単なる家臣間でのもめ事程度のとらえ方。
むしろ、巻き込まないでほしいと考えていたのでは?

輝元としては毛利家が採りつぶされてもおかしくない状況ですよ?
早くから家康側にたっていた毛利三川のひとつ吉川秀家
毛利家が兵を動かさないことで、毛利家をそのまま残すことを家康から合意をいただいていた。
結果、何度もから出兵を依頼されても、毛利家は大阪城から兵を動かさなかった。

戦後の判断において、
輝元の名前で、多くの武将へ三成側へ参戦するよう依頼する手紙が出されていた。
結果、毛利家取りつぶしという判断がなされたので、
吉川秀家が与えられた長州藩を毛利家に託すことで、毛利家を取りつぶさないように家康を説得、認めてもらうことで毛利家が存続することになりました。

多くの武将たちは、かつて秀吉の養子だった宇喜田秀家が討ち死にし、同じく秀吉の養子だった小早川秀秋が家康の前に土下座して許しを乞うている様子を見て、すでに秀吉の時代が終わったことを感じたのではないでしょうか?

三成を擁護する人なんていませんよ。

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