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お経と宗派について。父が先月亡くなりました。色々な宗派のお坊さんが好き勝手な...

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ID非公開さん

2017/12/507:41:05

お経と宗派について。父が先月亡くなりました。色々な宗派のお坊さんが好き勝手なお経を唱えてくださっていて、父を思ってくださる方がこんなにもいらっしゃることに感謝の気持ちでいっぱいです。

一方で、もしもお経に効果があって父の魂がちゃんと聞いてるとすれば、こんなにあれこれ唱えられたら混乱するのではないかと思いました。大丈夫でしょうか。私が死者なら確実に目が回ります。

まず菩提寺は天台宗。我が家は檀家総代をしています。なので葬儀の進め方は天台宗でした。父方の祖母の実家も東北の旧家で、親しいお寺さんがあります。曹洞宗です。うちは檀家ではないけど折々にそれなりの額の寄付を出してきました。そこのお坊さんも先日来てくださって、天台宗のお坊さんとはちょっと違うことを唱えていきました。あとの宗派は略。

父はお寺に対して、単なる昔ながらのお付き合いだけではない個人的な興味を持って接していました。宗教オタクで牧師さんや神父さんも大好き。家族でニューヨークに行って自由行動した時も、父が真っ先に行ったのはユダヤ人の集会だったそうです。

でも、オタクとしてミーハー的にあれこれ関わるのは良くても、お亡くなりになった当事者としてあれこれされるのはどうかと。

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ベストアンサーに選ばれた回答

butubokenさん

2017/12/609:24:22

私も天台宗で檀家総代を勤めています現役です。
ご存知のように、天台宗から各宗派の祖師が誕生をして教団を興されました。
いわゆる、各宗派の母山なのです。
天台宗は阿弥陀さんも敬い阿弥陀経を唱えますし、法華も敬って法華経を唱えます。
言い換えれば、専門大学のカレッジではなく総合大学のユニバーシティーなのです。
曹洞宗のお経と天台宗のお経で混在する物も有ります。
また、各宗派の僧侶が御参りに来られれば、自派の最高のお経を提供したいと思われての御勤めでも有ります。
お父様は俗人としてのお父様を終え、鬼籍に入られての聖者に成られていますから、友人達の熱い読経に感涙のお姿である事が想像されます。

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質問した人からのコメント

2017/12/8 19:41:56

まあ父は唱えてもらったお経はすべて知ってるかもしれませんね。オタクなだけに。そして父は、お寺と旧家が日常的に支えあっていた良き時代の最後の世代でしょう。我々(30代)はもはやお寺を支える資力はありません。お寺さんはどうなっていくのでしょうね。

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youichi5959さん

2017/12/717:58:52

残念ですが死なれた方にいくら何万巻の経典を読んでも、死なれた方
の功徳には何にもなっていません。

坊主の金儲けでしかありません。全く意味の無いことをやっているの
です。

生きている人間でさえ、中々聞けないのに死人は業苦にせめられて聞け
ません。

今からお釈迦さま、親鸞聖人のお言葉を挙げ、葬式、法事、墓番、塔婆、
遺骨、位牌などに魂が宿っているという迷信を間違いを正したいと思い
ます。

お釈迦さまの説かれたお経を僧侶は墓や法名、遺影、位牌を前にして
読経していますが死んだ人のためにやっている行為です。

ところがお釈迦さまの説かれたお経の最初には

〇「我聞如是」我、是の如く聞けり
〇「如是我聞」是の如く、我聞けり
のどちらかが書かれています。

いずれもお弟子が「お釈迦さまよりこのように聞きました」と
書き記したものです。
これでお分かりの通り、お釈迦さまは生きた人に話をされたことが明白
です。死人に話なされたことは一度もありません。

ある時、お釈迦様に一人の弟子が、「死人のまわりで、有難い経文を
唱えると、死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、本当
でしょうか」と尋ねたことがありました。

その時、お釈迦さまは黙って小石を一個拾われて、近くの池に投げら
れました。
水面に輪を描いて沈んでいった石をお釈迦さまは指さされてこう反論
されました。
「あの池の周りを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながら回れば
石は浮いてくるであろうか、
石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。人間もまた、自業自得に
よって死後の果報が決まるのだ。
経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか」
というのがお釈迦様の教えです。

読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはありま
せんでした。
それどころか、そんな迷信を打ち破って、生きている時に、本当の幸
福、絶対にくずれることのない幸福の身になりなさいよと教え説くの
が仏教なのです。

親鸞聖人ほどお釈迦さまの教えに忠実に教えられた方は無いと言っても
言い過ぎではありません。

『親鸞珍しき法をも弘めず
釈迦如来の教法をわれも信じ
人にも教え聞かしむるばかりなり』(親鸞聖人)

親鸞聖人の御遺言から知っていただきましょう。改邪鈔にこんなお
言葉が遺されています。

「『某(それがし/親鸞)閉眼せば賀茂川に入れて魚に与うべし』と云
々。これ即ち、この肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべき由を
あらわしまします故なり。
これを以て思うにいよいよ葬喪を一大事にすべきに非ず。
最も停止すべし」
意訳
「肉体の葬式に力を入れずに、魂の葬式、すなわち真剣に仏法を聞い
て本当の幸福、信心獲得(しんじんぎゃくとく)身になれるよう、
最も心掛けよ」
※『改邪鈔』覚如上人:親鸞聖人の曾孫さん。

『歎異抄』第五章
『親鸞は父母の孝養のためとて念仏一辺にても申したること未だ候わず』
意訳
「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、一声の念仏も称えたことが
ない」

葬式、法事、読経、墓の建立が死者に対する一番善いことだと世間中の
人が思っていることに対する親鸞聖人の警告のお言葉です。

墓、仏壇位牌などに死者の霊が来られるものでは絶対にないと、世間の
俗信を打ち破っていられます。

弥陀に救われている人は、死ねば浄土へ生まれて大活動するから、当然
墓石の下、仏壇位牌などにはいないし、救われていない者は、後生、永く
苦患(クゲン)を受けねばならないから、これまた墓に集まることなどでき
ることではありません。
亡くなった人の霊が墓石に集まってこられるものではないことを、仏教
では明らかに説かれています。

親鸞聖人は、御臨末に、
『我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す』
意訳
「今生の終わりが来たら、私は弥陀の浄土へ帰る」と仰っています。

墓や葬式などを問題にしておられません。平生、弥陀に救われた人に
とっては、墓や遺骨など問題にならないことなのです。

まず、私たちが親や先祖の恩に報いようとする時は、親の最も喜ぶことは
何か、先祖の最も望んでいることは何かということを、よくよく考えるこ
とが第一です。

世の親たちが、子供たちに望んでいることは様々だと思いますが、煎じ詰
めたところ、「子供たちよ、正しく生きてくれ、真の幸福になってもらい
たい」と希求しているのではないでしょうか。
それは、あえて亡くなった親や先祖を呼び出して聞くまでもなく、私たちが
子孫に切望することは唯一つ、「正しく生きよ幸福になれかし」というこ
としかありません。
このことを知れば、私たちが正しく生きて、真の幸福になることが、最も
親や先祖の喜ぶご恩返しになるのです。

では正しく生き抜くには、どうすればよいのか。真実の幸福になるには、
どうすればよいのか。

釈尊は、それには本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞信するしかないことを
生涯、教え続けてゆかれました。

阿弥陀仏の絶対の救いにあずかり、死んでよし生きてよしの、大安心、
大満足になって、苦悩渦巻く人生が光明の広海と転じて、明るく強く、
たくましく生き抜かせて頂く身になることが、最も親や先祖の喜ぶことで
あり、ご恩に報いることになるのです。それ以上の、先祖に対する供養も
親孝行もないのです。
この最も大事なことを忘れて、葬式や法事ばかりに力を入れているのは愚
かなことです。しかし、読経や葬式法事が死人のためになると宣伝して、
生活の糧にしている人たち(葬式坊主)から猛反発されるのを恐れて、誰も
明らかにしませんから、遺族の人情も後押しして、世間の根強い迷信と
なってしまったのです。

では葬式法事読経は、全く無意味なことかと言いますと、それは勧める人
の精神の如何にかかっています。読まれたお経や正信偈に説かれている教
えを聞かせて頂いて
ますます、弥陀の救いを求めなければならないことを知らされてこそ意味
があるのです。
死んでしまえば、生きている者が、どんなに騒いでも、どうすることもで
きないのです。

参照:「親鸞聖人の花びら」「なぜ生きる」より抜粋。


くれぐれも死んだ人の霊が墓や仏壇の中に来ているとか、位牌は死んだ人の
魂が宿っているとか言っている人がほとんどですが、みな迷信です。
寺の副収入にしているだけです。
ご参考に!

2017/12/610:39:28

仏教とすれば、元は皆一緒ですからね、仏になるということは釈迦の弟子になるということですから、各宗派あるというのは、導きの方法が違うだけで仏の弟子になるというのは一緒です。お経というのは導きの方法や悟りを開く方法を読まれてるに過ぎませんから、お経を聞いて迷うようなことはありません。

でも、天理教や金光教は神道ですからやはり違うんでしょうね

キリスト教やユダヤ教は亡くなったらどうなるんでしょ。

亡くなれば、言葉の違い宗教の違い肌の色の違いも皆一緒になって分け隔たりなく
なるとも言いますからね。

すみません。自己完結させてました。

haraheri117さん

2017/12/507:49:54

お経やお悔やみには、お亡くなりになった方への敬意と哀悼の意を捧げる気持ちもありますが、ご遺族の方々の心の安寧も兼ねているものと思いますので構わないと思います。
また、お父様がお経や回向のすべてを解釈すると考える必要は無いと思われますし、効果を考える必要もありません。
供養というのは、お父様の人柄とお付き合いされて方々の故人への気持ちですから。

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