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島津斉興が薩摩藩主の時代のお由羅騒動って何ですか?教えてくださいお願いします!

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ID非公開さん

2018/1/2220:56:28

島津斉興が薩摩藩主の時代のお由羅騒動って何ですか?教えてくださいお願いします!

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ina********さん

2018/1/2221:58:27

薩摩藩は度重なる幕府から押し付けられた工事などによって財政は危機に瀕していた。
ところが8代将軍徳川吉宗から田沼時代にかけての改革開放路線にのっかった8代藩主島津重豪は「蘭癖大名」(外国かぶれ)として名をはせ、豪奢な暮らしを行い改革開放路線を推し進めた。

息子の9代斉宣はこれに対抗して堅実かつ緊縮な藩運営を目指したが、父の方が長命であった。
斉宣は息子島津斉興(10代)に徹底的に自分の路線を叩き込み、保守的で堅実かつ緊縮な藩運営を目指させた。
一方長命な島津重豪は晩年、ひ孫の島津斉彬の養育に熱中し、自身の蘭癖と改革開放路線を叩き込んだ。
このため、島津重豪の路線を引き継いだ斉彬と島津斉宣の路線を引き継いだ島津斉興は江戸と国許薩摩とで激しく対立した。

質素倹約を身上としていた島津斉興が生涯唯一行なったと言って良い贅沢が江戸で一目ぼれした町娘を側室にしたことであった。
これがお由羅の方である。
お由羅の方は正室に遠慮した島津斉興に薩摩に住まわされたが、正室が亡くなると正室同然の扱いを受けるようになった。
長男の斉彬は死んだ正室の子で江戸生まれで江戸で育ち、一方お由羅の方の子久光はは薩摩で生まれ育った。
島津斉興はこの久光に徹底的に自分の路線を叩き込んで育て、すきあらば斉彬を廃嫡して跡継ぎにしようとした。
これに対抗した斉彬は、島津家嫡男と言う立場で当時改革開放路線へ舵を切っていた老中筆頭阿部正弘や、各地の改革開放路線の大名と交際を深めていった。

1848年斉彬は、薩摩藩の密貿易の証拠を幕府に提出、父を隠居に追い込もうという非常手段に打ってでた。
しかしこの時は島津斉興の右腕であった調所広郷が一身に罪を被って自害したため、島津斉興の隠居には至らなかった。
一方、島津斉彬にはたくさんの子供がいたが次々に病死し、1849年に4男が病死すると「お由羅の方が呪いを行なっている」という噂が流れ、斉彬派・斉興派ともに騒然とし薩摩は騒然となった。

・お由羅騒動

やがてこの対立の中から「お由羅の方を襲撃する企てがある」といううわさが立つに至った。
1850年に入るとうわさを好機とみた島津斉興は、これを理由に国許で斉彬派の一斉摘発を行い、多くの斉彬派が切腹・遠島・免職などの処罰を受けた。
西郷隆盛やその父と深くかかわりのあった赤山靭負(実は島津一門)も切腹させられている。
このとき、一部の斉彬派が薩摩を脱出し、島津重豪の晩年の息子で福岡藩黒田家の養子になっていた改革開放派の黒田長溥の元に逃げ込んだ。
黒田長溥はやはり薩摩から養子に出ていた弟の八戸藩主・南部信順とともに老中・阿部正弘に事の次第を報告、将軍徳川家慶は島津斉興へ隠居を命じることとなった。
一連の事件をお由羅騒動もしくは高崎崩れという。

島津斉彬は父の隠居と家督相続を勝ち取ると、それ以上の処罰を行なわず、お由羅の方並びに島津斉興は天寿を全うした。
尚、島津久光は個人的には兄の斉彬を尊敬しており、斉彬の死後まもなく父が死ぬと斉彬の路線を踏襲しようとしたが、薩摩しかしらず保守思考を叩き込まれた久光の路線は中途半端なものになっていった。

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ojy********さん

2018/1/2221:18:48

斉彬を跡継ぎにせず、
お由羅の子、久光を後釜にしようとしたこと

斉興も久光を気に入っていたため
藩内が真っ二つに割れ斉彬派が粛清を受ける

しかし幕府が、仲介に立ち強権発動
斉彬が無事に殿様になる

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