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石田三成は「人望がなかった」といえるのでしょうか?

kok********さん

2018/2/2521:32:26

石田三成は「人望がなかった」といえるのでしょうか?

石田三成は優れた官僚だが人望がなかったとよく評されます。親友である大谷吉継ですらそのように言ってますよね。
しかし私が知っているだけでも石田三成は北は津軽、伊達、上杉、佐竹、南は毛利、島津らが取次もしくは奉行としての三成の世話を受け恩義を感じており、伊達政宗などはわざわざ浅野長政から変更して三成を指名しています。さらに宇喜多や小西などともつながりを持っています。

これだけ全国的に人脈があり、関ヶ原の戦いでも津軽と伊達を除いてすべて西軍についています。これで三成が「人望がない」とはとても思えません。

私にはエンタメ程度の知識しかありませんが、歴史に詳しい方、ご意見をお願いします。

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kou********さん

2018/3/310:08:49

主様のおっしゃる通りだと思います。

石田三成に「人望がなかった」だから、豊臣は分裂し、徳川家康に負けたと言う考えは、関ヶ原の戦い以降に生まれた考えで、正確ではないと私は思っています。

 

そういった巷間の説では、石田三成は西軍の実質大将と言われていますよね。

その実質総大将の三成に、人望ないとしたら、どうやって西軍を組織できたのかと言う事です。

巷間の説では、さらっと流される事が多いですが、元々 西軍は圧倒的に不利なんです。

なぜなら、西軍の目的は、実質上の政権支配者で圧倒的に強く有利な立場にいる、家康の打倒なのですから。

家康は官位も最高、領土も最大、天下人豊臣家の後継者 秀頼(淀殿)の唯一の有力親族、

しかも西軍挙兵時は、上杉を征伐する為、30万人の軍勢に号令を発している最中です。

特筆すべきは、天皇と豊臣家(淀殿)が、家康に正統性を保持させている事です。

西軍で真っ先に三成が挙兵したおりには、淀殿は奉行衆に命じて、家康と輝元に三成鎮圧令を出しているくらいです。

圧倒的な兵力と逆らえば逆族。どんな大名でも恐くて逆らえません。

19万石の身代で人望もなかったらおとなしくしているしかないでしょう。

実高200万石以上と言われる家康に次ぐ大大名にして西軍総大将の毛利輝元も同様で、単体では家康に手も足も出ません。

ちなみに、関ケ原の前、輝元は家康と、その下風に立つ形での同盟まで結んでおり、世間では家康の一党と見られていたようです。

前述の三成鎮圧令が家康と共に輝元に出ているのは、その為です。

そんな圧倒的に不利な状況で且つ、豊臣氏≒淀殿に逆賊扱いされても、多くの味方を集め、西軍を組織する一翼を担っていたのですから、それでも付いてくる者がいたと言う事、万人から受け入れられるタイプではなかったかもしれませんが、「人望はなかった」とは言えないと思うのです。

もっとも、結局 豊臣≒淀殿を味方に付けられなかった為で、西軍は結局敗北します。

西軍総大将の毛利輝元が大坂城に居ましたので、淀殿が西軍でなかったと言う事に違和感持たれるかもしれませんが、事実のようです。

当時の資料を見ると、輝元は、淀殿・奉行衆の命を受け、家康の同盟者として、反乱軍 三成鎮圧の為に大坂城に入城しているのです。

 

しかし、大坂城に4万2千の大軍で乗り込むと(豊臣軍は1万)輝元は態度を豹変させます。

家康の大坂城留守居役を追い出し、鎮圧するはずだった三成や、奉行衆等と組んで、西軍を結成、家康討伐の軍を起こすのです。

関ケ原の2年前、輝元・奉行衆(浅野以外、三成含む)は、対家康の秘密同盟を結んでいますから、これは計画的犯行しかし、淀殿は騙された形だったようで、4万2千の軍の圧力を受けながら、ほとんど西軍に協力していません。兵糧・金銀・天皇の下賜品と勅命まで揃えた 家康の会津征伐と違い、西軍には文書への署名すら断っています。

これが、毛利が大坂城を動けない原因となり、西軍が内部分裂する原因ともなります。

西軍には、人望でなく無理やり組み込まれた大名もいる訳ですので。

また、以上から、西軍を組織したといっても、三成は 主導者ではなく賛同者と言った方が良く、三成が主導者とされたのは、敗戦の責任を被る形だったにすぎないとも言えます。

ですので、三成は「人望がなかった」だから豊臣を分裂させ関ケ原に敗北した。そして主家 豊臣を滅亡に導いたのと言うのも、無理があると思います。 

三成は西軍主導者でもなく、豊臣分裂の主犯でもないのですから。

私は、三成が、豊臣分裂の元となる、福島 加藤との確執を起こしたのは、ある程度仕方なかった、三成の人格が主因ではないと思っています。

 

主因は2つです。

①秀吉が、福島 加藤達を幹部ではない完全な平扱いした事です。

②乗っ取られる側の豊臣≒淀殿が、前述の通り親族の家康のみを信用していたと言うことです。

①他の方も書かれている通り、武断派(福島・加藤等)文治派(三成等奉行衆)と言う分け方は違っているようです。福島・加藤も、立派に文民作業をしてきた事が分かってきたのです。
また奉行衆の人数にも、別に5人と言う縛りはなかったようです。
更に尾張派、近江派と言われる事もありますが、五奉行で明確に近江出身者と言われているのは2人だけです。寧々派、淀殿派と言われる事もありますが、淀殿は三成鎮圧令を出しています。

つまり、端的に言えば、「武断派」は出世できず幹部になれなかった者、「文治派」は、出世して幹部になれた者と言う事です。仲が良い訳がありません。
特に福島や加藤は、三成より実績も上だと思っていたでしょうし、ましてや彼らは秀吉の親族です。不愉快だったでしょうし、自分が幹部 三成にどう扱われるか不安でもあったでしょう。
今まで出世争いをしてきたと言う事は、ぶつかり合ってきたとも言える訳ですから。
秀吉の遺命では、幹部になれなかった非主流派が頼りにできるのは執政役の家康だけ(生前は秀頼傅役の利家も)、家康も自分以外の幹部(五大老・五奉行)を屈服させる為、幹部になれなかった非主流派を取り込みに走っており、両者の結びつきは必然で、三成と福島 加藤の確執も必然だったと思います。

②豊臣が敵対者(徳川)から豊臣を守ろうとするから、豊臣派は纏まる事ができるのです。

豊臣のトップ(淀殿)が敵対者(徳川)の後援者となってしまえば、徳川相手に豊臣が纏まる事は極めて難しくなります。

以上から、私は、「三成は人望がない」と言うのは、「豊臣家が滅びた」→「関ケ原で西軍が負けたから」→「西軍が武断派と文治派に分かれ分裂したから」→「三成に人望がなかったから」と言う逆算で生まれ、関ケ原以降の文書で定着していったと言うのが実際の所ではないかと考えています。

もっとも、「人望がなかった」とは言い切れませんし、最低限の「人望はあった」とは思いますが、同様に「人望があり」皆から慕われていたとも言いきれないとは思いますが・・・

質問した人からのコメント

2018/3/4 14:51:04

回答ありがとうございます。
人望がなければ関ヶ原の戦いでの「西軍」と呼ばれるグループを形成することは不可能ですよね。敵対する者も多かったが、慕う人も多かったというのが適切だと思います。

ベストアンサー以外の回答

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hid********さん

2018/3/321:43:37

人望じゃなくて、豊臣方No2(実質No.1不在)という地位に、みんな媚を売ってただけじゃないですか?

もし勝ってたら、恩賞を決める権限があるのですから。


津軽家は三成の次男・三男を引き取って重職に据えた、らしいですが。表面上は徳川に恭順、でも根は転覆の機をうかがっていた。そのときに三成の子を担ぎ出そうと目論んでいたのでは。

yos********さん

2018/2/2712:24:40

秀吉の生前から加藤清正に激しく嫌悪されています。
加藤清正の方が実際には統治や算盤で優秀な才能を示していました。

優れた官僚だっというのも疑わしいところです。
実際に兵站担当だった朝鮮出兵では、兵糧が不足が深刻であり兵糧輸送などで優れた能力を発揮したというのが間違いだということは明らかです。
小田原攻めなどでは実際に兵站を担っていたのは小西や増田で、実際には石田三成は同僚や部下の手柄の上に胡坐をかいていただけのクズでしょう。

朝鮮出兵では事実として兵糧が届いておらず、どんな言い訳をしようと現場の将兵にしてみれば三成の不手際の所為で死にかけ、または多くの仲間を失ったという認識にしか成り得ません。

関ヶ原では、公儀をかざして協力しなければ取り潰すと脅されたため参陣した者が多くを占めます。

三成自身の書状にも書いてありますが、秀頼・淀の方母子にも嫌悪されており、これで人望があったとはとても言えないでしょう。

ase********さん

2018/2/2616:32:57

全国的に人脈があるのは、当時の三成の立場を考えれば当然です。
そこら辺の農民と比べて人望が無いっていう話じゃないんですから。
この場合は「諸大名と比べて人望があるか」という話です。

三成は奉行衆の中では、まだ人望があるほうだとは思います。
しかし奉行衆はどこまで行っても「秀吉の代理人」であり、個人的な関係ではありません。
大名としては近江の小領主に過ぎず、知人ではあっても、個人的な友誼を結んでいる相手はごく少数でしょう。

一方で家康はもちろん、毛利や上杉も領地を治める一国一城の主として接しています。
お互いに、自分はもちろん領民の人生まで左右しかねない駆け引きの中で育んできた関係です。
そういうアレコレを乗り越えたうえで、今は肩を並べているような関係です。

SNSで繋がってる人が多いとか、そういう話とは意味が違います。
全国規模の生き死にを掛けた戦いで、自分を信頼してくれるような人がどれだけ居るのか、という話です。
そして三成には、そういう人脈がない、という事です。

ouh********さん

2018/2/2606:41:55

秀吉とのコネ以外取り柄はありません。

loo********さん

2018/2/2601:37:46

Q「石田三成は「人望がなかった」といえるのでしょうか?」

「豊臣家奉行職」の身で多数の同僚大名に「襲撃」されるなど
異常ではないでしょうか???

しかもそのメンバーは「浅野、黒田、加藤清正、福島、池田、
細川、加藤嘉明」など大身の者たちばかりです。

そして「蟄居」から「隠居」の身にまで堕とされています…。

これで人望があったとなると
「人望」という言葉の意味が解らなくなります。
人望は無かったと思います。

Q「石田三成は優れた官僚だが人望がなかったとよく評されます。
親友である大谷吉継ですらそのように言ってますよね。」

そのようですね。

それを現代の我々が贔屓目から「そうではない!」とするのは
間違いでしょうし三成の友人の言を取るべきかと思います。

Q「しかし私が知っているだけでも石田三成は
北は津軽、伊達、上杉、佐竹、南は毛利、島津らが
取次もしくは奉行としての三成の世話を受け恩義を感じており、
伊達政宗などはわざわざ浅野長政から変更して
三成を指名しています。
さらに宇喜多や小西などともつながりを持っています。
これだけ全国的に人脈があり、関ヶ原の戦いでも
津軽と伊達を除いてすべて西軍についています。
これで三成が「人望がない」とはとても思えません。」

「仕事(取次)」の「繋がり」と
人望は同意にはできないでしょう。
ましてや相手は「天下政権の大官僚」です。
諸大名が無碍にはしないでしょう。

また小西などは「朝鮮出兵」時に共に
「悪事」もなした同僚でもありますしその仲は切っても
切れない縁でしょう。しかしソレが
「人望」とは違うと思います。

そして「取次」していた「伊達」は東軍に付き、
「島津」は本家は動かず「義弘」自身も
実際は「東軍」に付きたかった所を上手くいかず
「西軍」に・・・といった具合です。

この状態で、上記も含め
「三成が「人望がない」とはとても思えません。」」とは
なぜでしょうか?小説などに見られる三成像から来る
偶像への崇拝や判官贔屓の偏見ではないとは思いませんか?
それとも自身の見識は絶対でしょうか?

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