木村先生が目指したのは、組手がどうこう、体勢がどうとか、押すと見せかけて引くように相手を崩して技をかける柔道ではありません。
目指したのは、いつでもどんな組み方でも好きに相手を投げる王者の柔道でした。
川砂利を掬って生活していた日常で鍛えられた足腰、柔道を学ぶ前に身に付けた竹内三統流柔術、扱心流柔術出身の牛島辰熊氏に学んだ木村先生は、現在の柔道とは別の柔道です。
たとえば、毎日 うさぎ 跳び1km、腕立て伏せ1000回、打ち込み1000本、 握力 をつけるための空手の巻わら突き500回が準備運動で、いつも鉄下駄を履いて移動していました。
牛島辰熊氏は「8人投げて9人目に投げられるとは何ごとか。試合は、武士が互いに白刃の刀を抜き放って殺すか殺されるかの真剣勝負をするのと同じだ。相手を投げるということは、すなわち殺すことであり、投げられて負けるのは、殺されるということだ。お前は8人殺して、9人目で殺された。木村という人間は、今ごろ地獄の3丁目あたりをうろついているんだぞ。お前が柔道を志す人間なら、試合ではどんな強敵が何十人いようと、投げ倒してしまうか、それとも中途で引き分けするかによってのみ命をながらえることができると思え。」と木村先生に指導しました。
木村先生はこの言葉を真剣に受け止め、日々9時間の稽古を続けました。
その過程で高専柔道で練り上げた寝技と関節技、打撃に対応するために稽古した空手では師範代になるレベルでした。
また、ボクシングは洲チャンピオンのアメリカ人と対等以上でした。
公式戦15年無敗とはそういった中で達成されました。
木村先生は、昭和12年から15年の天覧試合まで日本選士権をとり、戦後昭和23年には松本安市氏を脇がためで腕を折り、昭和24年には群を抜いて強かった石川隆彦氏と引き分けて両者優勝になりました。
つまり、13年間王者として君臨したのです。
石川氏が晩年、あれは負けていたと述べています。
審判が三船久蔵先生で、牛島氏嫌いだったので優勢であったにもかかわらず引き分けの裁定をくだしたという話です。
その2年後にブラジルのエリオ・グレイシーと闘い、2ラウンドで勝利を得ています。
1ラウンド10分という子の話を聞いて、木村先生と同時代の柔道家が、「2ラウンドまでいったのですか!エリオは凄い選手ですね。われわれの場合は、木村先生と練習するときは、何秒もつか、が話題でしたから」
エリオ氏との試合の前に全日本クラスの選手があっという間に倒されているから、エリオ氏の生涯唯一の敗戦というの納得できます。
このエリオ氏との試合でも、木村先生の全盛期から10年は経っています。
そういうレベルの話です。
現代の柔道とは比べるべくもありません。