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漢化政策について教えて下さい。 北周時代に、公用語が鮮卑語に戻されたようです...

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ID非公開さん

2018/5/623:31:13

漢化政策について教えて下さい。
北周時代に、公用語が鮮卑語に戻されたようですが、隋の時代には公用語は漢語のように思えます。いつ漢語に再び戻ったのでしょう?

また、北周時代の公式文章は漢語でしょうか、鮮卑語でしょうか。(鮮卑語は文字文化が無かったらしいという話をネットで見ました)

どうぞよろしくお願いいたします。

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ste********さん

2018/5/700:59:57

>いつ漢語に再び戻ったのでしょう?

隋を建国した楊堅は、後漢以来の名門貴族であった
弘農(郡)楊氏の末裔を名乗っていました。
ですから、隋は漢人の名門出身の政権という建前のため
公用語も漢語に戻したのだと思われます。

https://kotobank.jp/word/%E6%A5%8A%E5%A0%85-145640#E6.97.A5.E6.9C.A...

>鮮卑語は文字文化が無かったらしいという話をネットで見ました

南北朝時代に、固有の文字を保有している民族は存在していませんでした。
これは日本や朝鮮なども同様でした。
鮮卑語を母語とする人たちも、文字は漢字を使用するしかありませんでした。
例えば、日本では万葉仮名のような形で漢字を使用し、
自分たちの言語を表現しようとしました。
しかし、知識人は漢文で表記するということが常識となっていました。

例えば、『日本書紀』は漢文で記されていますが、
漢語を使用していなかったとしても、漢文で文章を記すことが
知識人のステータスシンボルでした。

このあたりは、北魏や北周における鮮卑系の人々も同じだったと
思われます。
日常会話は鮮卑語で、文章は漢文でという形が一般的だったのでしょう。

北周は、伝統回帰というような建前を掲げて、
漢姓を胡姓に戻すことを実行しています。
例えば、楊堅は、楊から普六茹に姓を変えています。

北魏時代の漢化政策をへて、鮮卑系の人々でも
鮮卑語と漢語のバイリンガルになっていたか、
下手すれば漢語が母語になっていたかもしれません。
実際には鮮卑語の話者が減っていたため、
建前上鮮卑語を使おうということだったのかもしれません。

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    質問者

    ID非公開さん

    2018/5/722:55:21

    ありがりがとうございます。
    とてもわかりやすい説明でした。
    少し早いですが、感謝をこめてベストアンサーに選ばせていただきます。

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