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道長と伊周の氏長者争いについてです。

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ID非公開さん

2018/6/420:48:36

道長と伊周の氏長者争いについてです。

道長の娘の彰子が一条の妻になったが一条には道隆の娘である定子という妻もいた。その間に子供が生まれると伊周(道隆はすでに死んでるため息子の伊周)が権力を持ってしまうため道長は焦り争いになった

ということで大丈夫ですか?

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ban********さん

2018/6/421:52:02

「皇后、中宮、並び立つ!」というフレーズが、なんか妙に、記憶の底に残ってるんですよね。そういうのってありません? あれは高校の授業だたと思うんだけど、日本史の先生だったか、古文の先生だったか、いまいち判然としないのですが。どうして印象に残っているかというと、「肩書きなんてものは、時の権力者の横車で、なんとでも都合のいいようになるんだ」という意味だったからでしょう、たぶん。
皇后と中宮が「並び立つ」と、何だというのか。本来は、異常事態だということです。
だって、前のかたが書いておられるように、皇后と中宮は同じ意味だからです。皇太子と東宮が同じなのと一緒です。
皇后の住処が「中宮」、皇太子の住処を「東宮」です。エライ人を呼ぶときは、肩書きをズバリ呼ばずに、住んでいる建物の名前で呼んだりするのが「日本式おくゆかしさ」です(たとえば武田信玄が「おやかたさま」と呼ばれるのと一緒ですね、「お館」に住んでいるからです)。
ところが、平安時代中期に、一時「皇后」と「中宮」が別なひと、ということがおきます。時代は、藤原道長の兄、道隆のときです。おお、例の「中関白」です。
関白道隆が、一条天皇に嫁がせた娘の定子(清少納言の主人ですね)を「立后」しようとします。つまり正夫人と公認させようとしました。生んだ子供が確実に次期天皇になれるように、です。ところが、ここに面倒な障害があったのです。
天皇の第一夫人を「皇后」、退位した前の天皇の第一夫人(つまり前の皇后)を「皇太后」、そのまた前の皇后を「太皇太后」、これを「三后」と呼び、それぞれお世話する役所があります(だから、それぞれ一人と決まっています)。ところがこのとき、まだ「三后」がみな健在で、称号にアキがなかったのです。
皆様ご存知のとおり、あの時代は、ときの権力者・藤原氏が自分たちの都合で、幼い天皇を即位させては短期間で退位させてまた別の・・・ということをやっていました。おかげで、前の前の天皇の后がまだ「皇后」のまま残っていたのです。
元天皇の后なのにどうして「皇太后」じゃなかったかといえば、つまり、上がつかえていたのです。
現に太皇太后や皇太后である女性たちに、理由なく「やめてもらう」ことはできません。そうなると、前天皇のおきさきも、皇后から繰り上がれません。そこで苦肉の策として道隆は、「皇后」はそのままに、自分の娘を「中宮」と呼ぶことにして、強引に「立后」したのです。
道隆、あきらかに反則技です。こういうことをしているから、朝廷で人気がなくなるんですが。
さて、時代は移って。この「前例」に目をつけたのが、弟の藤原道長です。この間に、中宮定子は、父・道隆の死と、兄・伊周、弟・隆家の不祥事による失脚で、後ろ盾をすっかりなくしています。
道長は、一条天皇に娘・彰子(紫式部の主人ですね)を入内させ、さらに強引に立后、つまり「第一夫人」にしようとします。しかし、中宮・定子を格下げする正等な理由はありません。そこで、定子を「皇后」とし、自分の娘を「中宮」ということにしたのです。ここで、「皇后、中宮、並び立つ!」すなわち「一帝二后」、一人の天皇に、皇后と中宮、二人の后(第一夫人)がいるという奇妙なことになってしまったのです。
「皇后」と「中宮」はどちらも正夫人であり、事実上、同格です。これ以降、中宮・彰子と皇后・定子の「仁義なきバトル」が展開され、そのなかで「源氏物語」や「枕草紙」が生まれるわけですが、結局、後ろ盾のない定子の劣勢は否めなくなります。
父・道隆が横車で作った制度が、結果として娘・定子の「首を絞める」こととなる、とことん「中関白」殿は人徳がありません。しかし、同じような横車をやっても、道長は朝廷で人気があったんですから、このへんはもう、人間の器としかいいようがありません。
これが先例となり、以降はひとりの天皇に皇后と中宮が同時にいていい、ということになってしまったのです。日本は「おきさきが二人いる国」になったわけです。どうなんだろうな、というところです。

道長が焦っていたかどうか、といえば、私は、さほど焦ってはいなかったのではないかな、と思います。日本において家督相続は、生まれた順ではなく、母の身分が高い順、というより実際は、母の実家の権力が強い順です。
上記のように、道長が、自分の娘を、道隆の娘と同格の資格で押し込んだ時点で、すでに道隆の二人の息子、伊周・隆家は不祥事で失脚しています。道長は内覧となり、権力を掌握しています。もうすでに勝負はついている、といえます。
だから、定子が先に男子を産んだとしても、その皇子にはすでにバックがありません。道長の娘・彰子があとから産んだ男子のほうが圧倒的に強いんです。実際、そのとおりになりました。

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2018/6/714:26:30

道長の娘の彰子が入内したのは伊周が失脚した後です。

定子の産んだ皇子も定子亡き後は彰子が養育して道長の庇護下に入っています。

伊周との氏の長者争いについては、当時一条天皇は父院と外祖父、舅の道隆と次々と後ろ盾を失って危うい立場にありました。

東宮であった三条天皇には御子が生まれ、先に退位した花山院派も巻き返しを図っており、いつ退位に追い込まれてもおかしくない状況でした。

そんな危うい立場の一条天皇を支えるために一条天皇の生母である道長の姉が道長を中心として従兄弟の藤原顕光、季父の藤原公季と連携させて一条天皇を支えようと画策し、単独で押し通そうと無理をした伊周と方向性の違いから争いとなったものです。
道長、顕光、公季の三大臣連携の方が安泰であり、以降一条天皇は地位を確かにしていきました。

また元々道長は三条天皇と兄弟同然の昵懇の仲であり、東宮派であったため引き抜かれたという方が妥当です。

pap********さん

2018/6/511:15:52

焦りはなかったと思いますよ。

他の方もおっしゃってますが、一条天皇の生母がバックにいましたから。もうこれだけで勝負ついてます。
道長は正妻に皇族筋の女性を迎え、生まれてくる子供たちの身分もしっかり確保。
定子が男児を生んでも、対応できる基盤をすでに作っていました。そして定子の2人目の出産に合わせて、娘の彰子を入内させて、人々の関心をそちらに向けさせました。

さらに伊周本人は宮廷の人々から嫌われてました。強引なやり方に、一条天皇も不信感を持ったほどです。道長からすれば、伊周がミスするのを待つだけで充分です。それも伊周の性格を考えれば、そうそう遅くはない、と踏んでいたでしょう。
結果は、伊周の自滅により、道長が氏長者になりました。
焦っていたのは伊周の方ですよ。

knt********さん

2018/6/508:48:26

なに言ってるの?

兄貴が死んで落ち目になったから娘押し込んだのが道長だろ。

wak********さん

2018/6/423:20:02

道長は焦っていなかったと思います。
時代の流れは道長の方にあったように見えます。
一条帝の母であり道長の姉は道長をかわいがり、道隆の系統を敬遠していたようにみえます。
この方はちょっとご自分の感情に正直な方のようで、想いを通すためにけっこう強引な事もします。
この方だけではなく貴族たちから伊周は嫌われていたようだし、父や母が亡くなれば、勝ち目はないように思います。
定子さんもかわいそうでした。
彰子さんは定子さんの遺児たちの面倒を見たんですよね。
後宮での争いと言っても、ご本人たちは下品な争いをしていたわけではないと思います。

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