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「平将門の首塚」について。「平将門の首塚」は過去に移転させようとしたら事故等が...

mic※※※※※※※※さん

2018/6/721:26:15

「平将門の首塚」について。「平将門の首塚」は過去に移転させようとしたら事故等が起こり移転出来なかったそうですが、事故は偶然でしょうか?それとも偶然では説明の付かない、不思議な部分も有

りますか?

補足今後、再開発等で移転する可能性は有りますか?

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ban********さん

編集あり2018/6/903:10:41

江戸城の場所はちょっとした高台になっていて、江戸時代以前も、日比谷入江を見下ろす小高い丘のような場所だったと思われます。
つまり、将門の首塚は、横浜の外人墓地のような、海を見晴らすポジションでした。
ここにはもとは小さな古墳があり、それが鎌倉時代に「将門の首塚」と認定された(=適当に決められた)ようです。実際に将門の首が埋まっているかは、どうでもいいことで、関東の民衆の「信仰の対象」として適当なイイ感じの古い塚が選らばれた、ということでしょう。
この首塚が「大手町」にあることは、偶然ではありません。そもそも太田道灌の時代から、江戸城というのは「関東の守り神」将門塚の前に作られたものだから、です。
平将門は、関東独立王国を夢見て戦い、敗れ去った男です。彼の理想は「地方分権の確立」であり、彼が戦った相手は地方を搾取の対象としか見ない「腐った官僚制度」にアグラをかいた京都の貴族たち、です。
将門の理想は、鎌倉幕府によって形になり、太田道灌や北条氏に引き継がれ、江戸幕府において完成しました。
江戸幕府は「関東の王」の始祖である将門を最大級の尊敬をもって扱いました。江戸城の大手門が将門の首塚のほうを向いているのも、そのためです。
幕府、封建制という仕組みは、ひとことでいえば「地方分権」です。徳川幕府が強権的な中央集権政府だったように言うのは大きな誤解で、基本は、それぞれの地方が独自に自前で政治経済文化をはぐくみ、総体として日本全体が栄える、そういう仕組みの国でした。将門は、江戸城の大手門の前から、自分の後継者たちが道を踏み外さないように見つめています。
さて、そんな将門が、明治、大正、昭和になって、自分の首塚のまわりに乱立するビル、それに象徴される「近代日本」を、果たして手離しで喜んでいるでしょうか。
東京にすべての権力を手中させ、地方を搾取し見捨てていく、そんな国が自分の周りに出来上がっていくことを、苦々しく思っているに違いまりません。将門の首塚を軽視する人間というのは、たいてい「地方分権」の意味を理解しない、効率優先の、腐った官僚制の末端にいることに無自覚な人間です。そういう「理想を忘れた」者に対して、将門はときどき「お灸を据えて」みせるのです。決して個人的な「呪い」ではありません。
「理想を忘れたヤツは、オレの首塚の前にきて、しばし、じっくり考えてみろ、オレはそのためにここにいる」。それが将門の首塚が大手町にある意味です。

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tom********さん

2018/6/722:46:39

古墳の発掘の際、ショベルカーのキャタピラーが切れたりしたこともあります。
まあ、故人が眠るところは、触らないに限ると思います。

まあ、とはいえ、古墳を発掘する時に、お坊さんやらを呼んで供養していますが、仏教徒でない故人に念仏を唱えてもいかがなものか、とも思っていますが…。

nic********さん

2018/6/722:05:44

昔はこんな立派な「古墳」だったのに、今では見る影もない。
俺みたいに全く信じない輩が昔から沢山いたという事。

昔はこんな立派な「古墳」だったのに、今では見る影もない。
俺みたいに全く信じない輩が昔から沢山いたという事。

多分誰も触らない。
米軍兵士ですらあの場所を整地中に、ブルドーザーが横転して死者が出ています。
今でも、くひ塚が見えるオフィスビルは、窓を塞いで見えないようにしています。
首塚に尻を向けて座るとたたりがあるそうです。

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