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天狗党の生き残りの人達や子孫は、徳川慶喜を暗殺しようと思わなかったのでしょう...

shi********さん

2018/8/2402:54:52

天狗党の生き残りの人達や子孫は、徳川慶喜を暗殺しようと思わなかったのでしょうか?

天狗党の首領である武田公雲斎は、水戸徳川家の家臣であり、親交もあった人物であるにもかかわらず、
慶喜は自ら朝廷に願い出て、4000名もの兵を従えて、彼らの討伐に向かっています。。

慶喜を頼って京都へ向かっていた天狗党の志士たちは、慶喜が自分たちを倒そうとしているのを知り、あきらめて加賀藩に降伏しました。
加賀藩では、天狗党の党員に手厚いもてなしをしたにもかかわらず、
その身が、幕府追討軍に引き渡されると、状況は最悪なものとなりました。
異臭を放つ鰊倉に閉じ込められ、手かせ足かせをはめられて、飲食も制限され、極寒のなか20名もの志士がなくなりました。
その後、352名が処刑されました。

天狗党の乱から2年後、慶喜は、ちゃっかりと将軍になっています。
せっかく将軍になれたのに、慶喜は、鳥羽・伏見の戦いの初戦敗退がわかると、江戸に逃げ帰り、寺にこもってしまいます。
その後、水戸で謹慎生活を送り、静岡でのんびりと趣味を満喫した余生を送ります。

「自分さえよければまわりはどうでもいい」というような慶喜に対して、
天狗党の生き残りの人々や、子孫たちは、慶喜に復讐してやろうと思わなかったのでしょうか。

慶喜が誰からも暗殺されず、77歳の生涯を楽しんでいたのが不思議でなりません。
暗殺計画はなかったのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

nic********さん

2018/8/2408:49:59

まあ、それを言い出したら、佐幕派大名なんてみんなそうじゃない。
家臣たちは塗炭の苦しみを味わい、主君の代わりに腹を切らされた者も少なくはない。
でも、維新後に主君はもれなく爵位を貰って東京で優雅な生活しているのに、家臣たちは収入も途絶えて生活破綻。一家離散して娘を女郎屋に売った士族も多いけど、元藩主を恨んで襲ったなんて聞いたこともない。

質問した人からのコメント

2018/8/29 13:57:45

静岡での隠居時代、慶喜は寝るときには、2人の側室とYの字になって休んだという話が残っています。暗殺者から身を守るための手段のひとつだったそうです(Yの字だと、部屋の四方のどこから入っても誰かにぶつかり、どれが誰の頭かわからないため、その隙に逃れられるという理由)。実際に暗殺はされなくても、心のどこかで、慶喜自身がしてきたことを悔いてほしいと願ってしまいました・・・。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

2018/8/2409:20:55

明治に入っても旧幕臣が慶喜を担いで、明治政府にクーデター
を何回も起そうとしたそうです。慶喜さんは相手にしなかった
そうです。

慶喜を護り牧野が原で茶葉の育成に精を出す家臣も多かったし
暗殺もされていませんから人望はあったのでしょう。

明治三十年代には天皇に招かれ、皇居で皇后手づからお酒のお
酌をされて慰労されています。

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