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百禍繚乱で読ませていただいたのですが日興遺誡置文は信徒に与えられたものではな...

crs********さん

2018/10/1010:40:39

百禍繚乱で読ませていただいたのですが日興遺誡置文は信徒に与えられたものではなく、日興上人の弟子僧侶に与えられたものである。そうあったと思います。

未だ広宣流布せざる間は身命を捨て隋力弘通を致すべきこと(御書1618)遺誡置文・弟子ある僧侶に与えられた、であれば、率先垂範の折伏で僧侶の大きな力で広宣流布は達成される。信徒80万は僧侶の折伏でという活動をされていると思いますが、そこで旧日蓮正宗末寺に通われる暫定信徒の皆様にお聞きします。大折伏戦各末寺の御住職の獅子奮迅折伏の活躍を教えてください。

補足僧が上俗が下という大石寺、広宣流布の立役者は僧と決まっています。あの熱原事件の発端は日興上人の折伏戦です。
僧が主、俗が従という関係でも明らかなようです。題目と僧の働きによって達成される信徒80万盤石ですね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

tom********さん

2018/10/1319:08:23

僧侶と在家は役割の違い。
組織運営が僧侶の仕事、在家は組織の利用者です。
ファンクラブで言えば、運営組織が出家、会員が在家です。
どっちが偉いとか偉くないとか、そう言う物じゃないですね。

そもそも、僧侶は仏法僧の三宝を守る役割を任されている立場です。
尊いのは仏に仕える僧侶の役割であって、僧侶の個人人格ではありません。
それを日蓮上人が末法無戒と言っていることに託けて、遣りたい放題しているのが日蓮正宗です。


遺誡置文は正本がありません。日我の写本がありますが、古写本がありません。
後世にでっちあげられた遺文とみるのが適当です。

そもそも、日興は正応3年(1290年)に大石寺を日目に任せて重須で晩年過ごしています。それなのに、元弘(正慶)3年(1333年)に遺誡置文が書かれているということは重須本門寺の出家に宛てて残したものということになってしまいますね。
大体、日我って保田妙本寺の僧ですから、日郷の流れなんですよ。全然日目とは関係しない。

他にも、五人所破鈔、原殿御返事などの日興遺文も信頼できる古写本がなく、信憑性が乏しいです。


いずれにしろ、日興は「神社は悪鬼の巣」などと言っているくらいで、祖意に背いていますから、日興門流そのものが日蓮上人の教えとは言えないでしょう。

  • 質問者

    crs********さん

    2018/10/1410:39:10

    真筆でなくても信頼できる書は存在します。それができないのは宗派が違うというのが先にあるからです。
    実長は大聖人から5編の御書を与えられており、念仏無間地獄の理由や権実相対の法門などについては十分御教示されていたはずである。特に六郎実長御消息には念仏無間地獄について詳細に説かれており、恒長は実長のことといわれるが、同抄がたとえ実長自身にあてられたものでなく、その長子に与えられたものであったとしても、十分知っていてよいはずである.
    波木井氏以前の念仏信仰をきっぱりと捨てきれなかった頑迷さがあったのであろう.「此の国に守護の善神無しと云う事云わるべからず」、神天上法門”を否定する言葉を実長が述べている日興上人も「御心替らせ給い候かとはつと推せられ候」との文に見てとれる。そもそも波木井実長を化導したのは日興上人であり、こんなことは何度も言ってこられたことだからである

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質問した人からのコメント

2018/10/16 12:52:39

回答ありがとうございます!書き込み不可となってしまいました。この辺で終わりにしなければなりません。

ベストアンサー以外の回答

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tou********さん

2018/10/1601:23:43

日蓮正宗歴四年弱のものです。

あなたの述べることは、心情的には理解できるのですが、やはり下記の「観心本尊抄」を無視することは許されません。

「是くの如き高貴の大菩薩・三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか、当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責(かいしゃく)し摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。」
(『御書全集』「観心本尊抄」 P254)

明確に「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責(かいしゃく)し摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。」とあります。
折伏は賢王(現在は主権在民ですから在家信者の中心者でしょう)、摂受は僧という役割分担が一応示されているのですよ。

だからもし僧が批判されなければならないとするなら、彼らが「摂受」をまっとうしないことなのです。
「摂受」とは、周知のごとく信者および不信者の側にたって、それらの人たちが理解しやすい柔らかい方法で法を説くことです。
しかしいま彼らがやっているのは、自宗の正当性に頑迷に固執し、それを上からの目線で押しつけることのように思われます。
これが果たして「摂受」でしょうか、という問題なのですね。
少しは時代に沿うこと、フレキシブルに応対することを学ぶ必要があるのでは、と思わずにはいられません。

ということで、あなたの「折伏の主体は僧」であるかのごとき考えは、少しニュアンスが違うのではありませんか。

> 旧日蓮正宗末寺に通われる暫定信徒の皆様にお聞きします

暫定信徒(あるいは仮信徒、ないしは渡り信徒)等は、現状と違うところがありますよ。

たとえば、お寺の行事で、本信徒(根檀家)は前列、学会出身者は後列というような差はないでしょう。
また、本信徒と学会出身者とは、塔婆供養にしろ、戒壇御本尊の御開扉料にしろ同一でしょう。
だから、信仰上において目に見える差ほとんどはないのですよ。

この点では、日蓮正宗創価学会であった時代でも同じであったと思いますよ。
私が入信した半世紀前など、むしろ学会員のほうが優遇されていた面もあったのですよ。
当時の地域の人もいっていたのですが、「創価学会でよかった、法華講になる場合、御本尊御下付がなかなか簡単ではない」と述べていました。
創価学会は特別待遇されているとして、誇らしげな様子でした。

現在も、根檀家や僧の人たちは、腹の底で、あるいは影で学会出身者を「仮信徒あるいは暫定信徒」等思い、発言することもあるでしょう。
学界出身者として、これは不快なことです。
ただし、それによって損をするのは「僧および根檀家」の方なのですよ。
同じ信仰の同士に向って侮蔑発言・差別発言、あるいはその念をもてば、そうする方が罪業を積みます。
学会出身者は、それによって仏法的な損を蒙ることはないということです。

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