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プロテスタントの礼拝について質問します。

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ID非公開さん

2018/10/1912:07:52

プロテスタントの礼拝について質問します。

わたしは プロテスタントの福音派の教会で洗礼を受け その教会の礼拝にいっていましたが 思うところあって いまはカトリック教会にいっています。まだ改宗はしていません。

カトリックのミサにいくようになって感じるようになったのですが プロテスタントの教会の礼拝の説教は どうしてあんなに長く 礼拝自体が 説教中心なのでしょうか?

牧師の話しは 聖書解釈的説教で 聖書講座を聞いているようで 礼拝ではなく講演会にいっているようです。

プロテスタントのあのような礼拝スタイルが なぜ礼拝と呼べるのが疑問に思ってきました。
プロテスタントのあの礼拝のスタイルのどこに 礼拝の意義があるのでしょうか?

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dol********さん

2018/10/1912:51:49

あれはプロテスタントというより、アメリカの伝統なんだよ。

プロテスタントは聖書主義だから、礼拝の中心に聖書朗読があり、牧師がそれを解き明かすというスタイルをとる。だから、宗教改革以降の教会堂ってのは説教台を信徒の座席が取り囲むという様式になり、それがオーケストラの舞台にも影響を与えるのだけど、まあその話は置いといて。

で、17 世紀のアメリカ。新天地の人々がまずやったのは、牧師の養成だったんだ。旧大陸に頼らずに自分たちの中から牧師を出す。ってんで学校を建てる。それが後のハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学だよ。

で、このときのアメリカでは、「自分の言葉で祈る」ということが、定型文・祈祷文を使うカトリックや英国国教会との差別化のため、特に重要視された。ということはだ。「自分の言葉で祈る」ということが、高等教育を受けた牧師の証、知性の証と見なされるようになった。

だから、牧師の祈りはどんどん長くなった。17 世紀には 1 時間は普通に祈っていたらしいし、記録によれば 9 時間祈り続けた牧師もいたという。信徒はたまったもんじゃないが、当時はリバイバル運動も生じていたらしく、「長く祈れる牧師の教会へ行きたい!」という人々も多かったという。

聖書解釈的な説教になったのもそういうこと。だから逆に、アメリカではクェーカー派のように、「牧師も説教も賛美歌もない」という逆の極端な派も大きくなっていく。そしてまた、聖書解釈的な説教ではなく、もっと心にズシンとくる説教をするメソジスト派が入ってきて、教会がメガチャーチ化していったりもした。

そういうアメリカの歴史の上にある礼拝スタイルを、日本のプロテスタント教会の多くはそのまんま移植しちゃったのさ。

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ezr********さん

2018/10/1919:15:07

病的に長いのは確かに問題ですね。

http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1452609876/

fak********さん

2018/10/1915:11:49

>あのような礼拝スタイルが なぜ礼拝と呼べるのが疑問に思ってきました。

別の宗教と理解するのが妥当でしょう。分離したのだから別ものとするのが正しい認識。
福音教会とかバプテスト教会という名前をつけている教会は、戦後アメリカの宣教師が始めた教派・教会。その結びつきが続いているのが見える。

大きな伝道集会などでは時にアメリカの宣教師---むかしでいえばビリー・グラハムのような---を呼んで通訳を日本人の有名伝道師がして、説教の英語を感じさせない見事な日本語のメッセージにする。それだからこそ集会で何人もの決心者が出る。通訳が下手ではこころに響くわけがない。

教会の‘兄弟姉妹’の交わりも、にこやかな社交性が良いとされるのもアメリカのパーティ的。そういえばある福音派の教会で「兄弟」と二人称で呼ばれて、さすがに驚いたことがあった。こんなのは古いアメリカ映画でインディアンが使うのしか知らなかった。
説教でも必ず「笑い」を取る。まぁ居眠り防止もあるかもしれないけど、宣教師の説教でも必ず笑いを取る挿話や冗談が入っているものだった。
笑いをとるのはアメリカの政治家のパーティからなにから演説では親しみとして笑いを入れるのが普通だから、生真面目を旨とする日本の文化ではないのにそれを取り込んだ。

福音派は若者には受け入れ易い。聖書を誤りの無い神の言葉とする信仰だから、理屈で理解するインテリジェントな若者には哲学の延長のようで抵抗はない。カトリックは儀式的で、秘蹟はなにやら呪術的で、若者は入ってゆきにくいのでは。だから大学横断の‘キリスト者学生会’は福音派を宣言して存在するが、カトリックのそのような組織は無い。

福音派にはカトリックを攻撃する者も居るが、別宗教と認識するのが妥当なのだから、間違っているとか、異端とか攻撃するのは、傲慢だ。主にあたまの理解をとるか、ハートで信仰するか、自分に正直になれればよいのでは。

【蛇足】私は信仰ではカトリックでもなんでもどうぞ、と思うが日本のカトリックは反政府・反日的であるのを非難する。プロテスタントでも左翼的な教団があるが同様。

syu********さん

2018/10/1915:01:30

カトリックとプロテスタントを両方知る者ですが、説教というのは、聖書解釈する者なのではないでしょうか?あなたが行っているカトリック教会は聖書解釈をしてはいないのですか?
プロテスタントといっても色々あり、手短な説教もあれば、長い説教もあります。カトリックも神父によって違います。だから、プロテスタントと一括りに言っても判断が難しいと思います

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the********さん

2018/10/1914:01:59

「牧師の話が 聖書解釈的説教で 聖書講座を聞いているようで」退屈でしたか?
それは残念ですね。。

私たちにとって、「みことばは蜜よりも甘い」ので、それが楽しいのですよ。

神様は、ダビデを愛されました。
私たちもダビデに倣い、「みことばを心のうちにたくわえ」ようとしているのですよ。
「神に対して罪を犯さないため」に。(詩篇119:11)

また、コロサイ書3章16節にも「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」とあります。

イエス様も悪魔の誘惑を受けられた時、「みことば」で対抗されました。


私は改革派教会に通っていますが、説教は聖書解釈が主です。近所の日本基督教団の教会でも、日曜礼拝と水曜の祈祷会では、聖書講釈が行われています。

プロテスタントの聖書主義教会では、「みことば」を学ぶことを重視しています。
神が人類に与えられた「神の言葉である聖書」を学ぶことによって、神がどんなお方なのか、また、神のみこころとは何なのか、知ることができるからです。
そうしていくうちに「硬い食べ物」も食べれるようになり、信仰が強められていきますしね。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ人への手紙 10:17)とあります。

私たちは、自分勝手な思いではなく、神のみことばを聞こうという、へりくだった態度が大事だと思います。

自分で聖書を読むだけではなく、教会でみことばを学び、共に一つの思いを抱き、共に矯正されていくことで、教会が建て上げられていきます。

それは、私たちが「十分に整えられた者となるためです。」
そこに意義があります。神に喜ばれる者となるためです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために
有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられ
た者となるためです。」 (Ⅱテモテ3:16、17)

bre********さん

2018/10/1913:45:13

「礼拝」とは、神様に自分自身を捧げて生きることです。

神様の御言葉である聖書に耳を傾けるのは、基本的かつ重要なことです。


ルカ10:38~42
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


一方、カトリック教会は、神様の御言葉をないがしろにし、人間の教え(伝統・儀式)を重要視しています。
それゆえ、どれだけ礼拝をしても、神様には届かないのです。


マルコ7:1~13
さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、──パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある──パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

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