ここから本文です

卑弥呼が死んで倭の五王がでてくるまでの、古代史の空白期間について 大胆な仮説...

アバター

ID非公開さん

2018/12/816:36:15

卑弥呼が死んで倭の五王がでてくるまでの、古代史の空白期間について
大胆な仮説をお聞かせください。

補足日本建国以前の筋の通った歴史を知るには史記をはじめとする中国の正史と、日本書紀以外にはないと思います。
(古事記やそれに類する史書は偽書で問題外)。しかし、日本書紀は日本が万世一系の日本天皇によって統治されてきたという立場なので、半島からの渡来説は認めず、いい加減なところが多すぎ。
また、中国の正史もあくまで日本のために書かれたものではなく、著者の間違った主観が入り過ぎて正確でないと思われる個所が多い。つまりは、当時の大陸・半島を含めた東アジアの動きの大胆な仮説をお聞きしたいわけです。

閲覧数:
219
回答数:
4
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

num********さん

編集あり2018/12/1304:33:43

<紀元前>
中国江南地方から対馬海流に乗ってやって来た人々が
九州北部から朝鮮半島南端に定住し、
呉の太伯を祖とする集団「わ」を自称する。
稲作と耕作・漁猟を中心とした生活と
東シナ海から日本海沿岸を結んだ交易で栄えており、
入墨や甲骨占い、ケガレ思想などの風俗が見られ
周・春秋戦国期の中国に何度か薬草等を献じている。

(※弥生人が朝鮮半島よりも江南地方と結びつきが強いことは
近年のDNAなどによる人類学によって証明されつつあり、
稲作の伝来も朝鮮半島や南西諸島にはその痕跡がなく
朝鮮半島へは九州方面から流入したことが判明しつつある※)


<1世紀>
「わ」の王が『漢の委奴(わぬ)国の王』の金印を授かる。
「ぬ」は「大いなる」という意味の古代接尾語で
「わぬ」とは「大倭」を表す。後世の奴国とは無関係。

(※「奴」は「ぬ」「ヌ」両方の字源となったように
「ぬ」と読まれていたのは古代の常識であり、
「な」とは絶対に読めない。「匈奴」も「シャンヌ」である※)


<2世紀>
寒冷化とともに倭国は動乱の時代を迎え、
九州北部から朝鮮半島南端は邪馬台(やまと)国連合が糾合し
九州南部の狗奴(くぬ)国と激しく争う。
最前線であった吉野ヶ里など筑紫平野一帯は荒廃する。

邪馬台国連合には、狗邪韓(くやかん)国=釜山、對馬国=対馬、
一支国=壱岐、末廬(まつろ)国=佐賀松浦、伊都国=福岡糸島、
奴(ぬ)国=福岡平野から筑紫平野にまたがる「ぬ=大」湿地帯、
不弥(ふみ)国=福岡宇美、邪馬台国=大分中津・宇佐・耶馬や
對蘇(つそ)国・蘇奴(そぬ)国・華奴蘇奴(かぬそぬ)国といった
阿蘇山周辺国などの30ヶ国ほどが見える。
(※その内10ヶ国に「奴(ぬ)」が付されており、
「大□□国」という一般的な美称であったことが証明される。
中国側が意図的に付けた卑字なら、付かない国があるのは不自然。
中国側は現地人の発音を正確に聞き取り当て字しただけである※)

投馬国は出雲のことで、出雲が邪馬台国連合に服従する様子が
後世の『記紀』に伝わった可能性がある。


<3世紀>
連合は、狗奴国や大陸からの干渉を受けにくく
三方を山、一方を海に囲まれた険阻かつ神聖な山奥で
瀬戸内海へと逃れやすい大分中津(葦原中つ国)の邪馬台国から
女王・卑弥呼(ひみこ・ひめみこ)を擁立してまとまっていたが、
日食と卑弥呼の死によって再び混乱が起こり
男王を廃し台与(とよ)を女王に戴くことでようやく治まる。

卑弥呼と恐らく台与も、魏武曹操の「薄葬令」に基づく形で
自然丘を整備した冢(ちょう)が大分宇佐の亀山に築かれ、葬られる。
後に宇佐神宮が建てられ、彼女らを「比売(ひめ)大神」として祀り
殉葬された百名の奴婢のために百体神社が建立される。
この地域には中津の他に豊(とよ)の国、京都(みやこ)、耶馬や
杵築(きつき・きずき=出雲大社の前身名)などの地名が残り、
この一帯で採れた米は「中国米」と呼ばれていた。


<3世紀末~4世紀初>
大陸の動乱からの避難民により最先端の土木灌漑がもたらされ
平地の開拓に成功した伊都国・奴国などが強大化し、
大分中津の邪馬台国や阿蘇山周辺国など山深い国々は没落する。

卑弥呼・台与の親戚筋にあたる日向高千穂の神武=崇神は
落ちぶれた山の民(山幸彦)と海の民(海幸彦)を糾合し、
大規模な開拓に適した大平原を求めて東へ東へと進み
奈良盆地を新天地として新王朝を開く。
これにより、畿内の銅鐸文明は滅亡する。
(※纏向遺跡の古墳を邪馬台国と同時代とする近年の新説は
明らかに年代測定法の運用を誤っており、
従来通りに4世紀前半とすべきである。
当測定法は法隆寺の心柱を再建時より100年古く判定している※)

自らのルーツである邪馬台国を偲んで「やまと」と名付け
畿内の開拓を進めつつ「大倭」統一を目指す。
邪馬台国連合の1つであった朝鮮半島南端の狗邪韓国は
神武=崇神天皇に臣従を誓い、「みまな」の名を賜る。


<4世紀>
垂仁天皇は父のために最先端の土木灌漑技術の粋を集めた
前方後円墳を造り、殉葬を禁止して埴輪を埋葬するなど、
雄大な古墳時代の基を築く。
祖先である卑弥呼・台与を天照大神として崇め
かつての邪馬台国(大分中津)と同じ地勢である東方の伊勢に祀る。

景行天皇は日本武尊らを用いて、東は関東まで
西は自らのルーツである北中部九州を再征服する。

一方、朝鮮半島中南部でも馬韓・辰韓地域の統一王朝化が進み
中央集権国家としての百済(クタラ)・新羅(シラ)が形成され始める。

成務天皇は国や県など地方行政機構を整備する。


<4世紀末~5世紀初>
高句麗(コマ)と百済の抗争が激しくなり
百済の救援要請により仲哀天皇は朝鮮半島情勢に干渉する。
百済・新羅を巡って高句麗と戦うも一進一退の攻防に疲弊。
半島より大勢の遺民・避難民を受け入れる。

朝廷の強硬姿勢に反発した葛城・河内・紀伊や渡来人などの勢力は
仲哀の親征を要請して九州に誘き寄せ、これを暗殺。
自らの息の掛かった応神天皇を擁立すると
畿内へと侵攻して旧勢力を打破し新王室を樹立する。

後世、応神王朝と継体王朝の正統性を喧伝するため
応神は八幡神として神格化され、
天照ー神武・崇神王朝との結合のための神功皇后や
その忠臣としての武内宿禰などの寓話が形成。
応神・神功は天照=比売=卑弥呼・台与の眠る宇佐神宮において
その左右に侍る形で合祀され、
伊勢神宮と並ぶ二大宗廟として崇められた。


<5世紀>
「讃」こと仁徳天皇は難波宮に遷都し、租税を免除するなど
新政権の基盤確立を進め、最大級の古墳の造営が始まる。
朝鮮半島に関しては武力制圧よりも外交圧力を重視し
421年に宋に朝貢して『安東将軍倭国王』を賜る。

履中天皇・反正天皇は内乱の鎮圧と内政の充実に努めるも
それぞれ5年前後で崩御。
「珍」こと反正は438年に宋に朝貢して『安東将軍倭国王』を賜る。

「済」こと允恭天皇は氏姓制度を整えつつ新羅と友好を深め、
443年には宋から『安東将軍倭国王』、451年には『安東大将軍』
『使持節都督倭/新羅/任那/加羅/秦韓/慕韓六国諸軍事』を賜る。
倭は宋と結んで百済と新羅を支援し、北魏・高句麗と対立を深める。

「興」こと安康天皇は近親相姦の前科があった兄を倒した後に
晴れて皇位継承するも、3年後に暗殺される。
462年に宋から『安東将軍倭国王』を賜る。

「武」こと雄略天皇は葛城氏や吉備氏を粛正するなど
武断的な中央集権化を強硬に推し進め、
地方豪族による大型古墳の建造を禁止しつつ
自らの功績を刻んだ刀剣を下賜するなど朝廷への忠節を求める。

再び朝鮮半島情勢に干渉し、高句麗・新羅を破るも
最終的には失敗し、撤退する。
475年には高句麗によって百済が攻め滅ぼされたため、
任那の地を割いて百済を復興させ
入質していた昆支王の次子を東城王として即位させる。

中国や半島から積極的に渡来人技術者を入植させ重用。
478年に宋から『使持節都督倭/新羅/任那/加羅/秦韓/慕韓
六国諸軍事安東大将軍倭王』を賜る。
479年には南斉王朝樹立に伴い『鎮東大将軍』に
502年には梁王朝樹立に伴い『征東大将軍』に進号する。

  • アバター

    質問者

    ID非公開さん

    2018/12/1311:11:44

    大納得できる説を感謝いたします。ただし若干の疑問も残ります。
    1.鉄の文明に関しての、出雲王朝や吉備王朝、敦賀王朝の存在が小  さすぎるのでは。
    2.瀬戸内海を通れるようにしたのは敦賀王朝の継体で、崇神が大和  盆地に入ったというのには無理があるのでは。
    3.高句麗南下による朝鮮半島大動乱の影響による山陰地方への
      渡来民の大移動に関する説が弱すぎて、日本書紀の影響が強すぎ  る感じもします。
    4.倭国動乱は大陸の大動乱と関係が深いと思われますが、そこの考  察が足りないように感じますが。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

aka********さん

2018/12/918:48:25

卑弥呼は魏に朝貢して、冊封を受けましたが、時代は移り、魏→晋→西晋→南朝の宋と変わりましたので、卑弥呼のずっと後継の倭の五王も、魏のずっと後継の宋に朝貢して、冊封を受けました。

pin********さん

2018/12/819:53:24

日本書紀の「神功皇后紀」の元年は200年で、神功69年(269年、己丑)で終了しています。
卑弥呼の死亡時期、247年、248年が正しいとすると「壹与」の存在を隠蔽して、「神功と卑弥呼は別物を装っています」。
神功皇后の次の「応神」の即位は、269年の次の年の270年(庚寅)で、神功皇后の子供が応神という事になっています。
でも、「応神」の即位を270年だと、考えている人はいなくて、同じ「庚寅」なのですが「二周甲(60年×2=120年)」繰り上がった「390年(庚寅)」と言うのが定説の様です。
これが、「卑弥呼」と「応神(倭の五王)」の間の空白期間です。
「269年に死亡した神功皇后が、390年即位の応神の母にはなり得ません!」。
最終的に「神功皇后紀」は「卑弥呼と壹与と空白の120年間」で出来ていることになります。

neb********さん

2018/12/816:43:19

5世紀末に完結する神武東征侵略の期間
その期間は五瀬命として記紀に記載されています。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる