ここから本文です

関ヶ原の合戦で豊臣恩顧の武将が三成側ではなく家康側に付いたのは福島正則が小山...

kaw********さん

2018/12/1407:24:13

関ヶ原の合戦で豊臣恩顧の武将が三成側ではなく家康側に付いたのは福島正則が小山会議で家康側に回ったから皆が正則に従ったんですか?

閲覧数:
119
回答数:
6

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

mas********さん

2018/12/1409:50:31

福島正則や加藤清正、浅野幸長、池田輝政と言った武将はただ単に三成憎しで、三成こそ豊臣家に仇なす者とみなされて居た為です。
家康こそ豊臣家の事を考えていると見ていたからです。

豊臣恩顧でも藤堂高虎や黒田長政は関が原の時点では豊臣家を見限り、家康にかなり接近しております。

長政は小山で三成挙兵を知った時、正則さえ家康に付くと言えば他の諸侯も家康に付くと見て、うまく説得して家康側に立たせています。

豊臣恩顧でも心底豊臣の事を考えていたのは福島、加藤、浅野、池田位です。
三成、行長あたりがもう少し武闘派の武将の事を理解していれば関が原は起こっていない可能性がかなり高いですね。

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/5件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

nad********さん

2018/12/1415:50:15

そもそも豊臣のために上杉討伐に出かけたのに逆賊呼ばわりされているのに西軍につく必要はないです。
人質を取られて身内のことを考えた人達が西軍についたのです。

img********さん

2018/12/1414:52:33

前述されているように小山評定があったかなかったか議論されていますが、あった派もなかった派もエンタメで正則や山内が立ち上がったようなイメージは否定されているのは共通しています

反対に家康から命令に近い形で出ていたようです

黒田如水(官兵衛)はその小山から家康の命令を受け取っていますし、正則達も東海道の道普請や尾張での年貢収納などの命令を受けています(+西軍からの領略書状を家康に提出、のらりくらりと時間稼ぎの為に返事を出す)

ですから、正則が小山評定で家康支持をしたから、ではなく正則も(他豊臣恩顧も)家康の命令に当初から従っています

seo********さん

2018/12/1412:27:32

福島正則はただの豊臣家臣ではないです。太閤秀吉のいとこですからね。
その発言力は大です。関白秀次にすら悪態ついたりして関ヶ原前後では家康の正則への気遣いは半端ないです。通行巡って家康の直参旗本と揉めて家康にこの旗本の首を要求したぐらいです。結局この旗本は切腹させられてます。大坂の陣では正則は江戸にいましたが一族が多く大坂方で戦ってます。

joy********さん

2018/12/1409:36:41

小山会議は本当にあったのかなかったのか、議論中だからねぇ。
少なくともなんらかの軍議はあったと思うけど、その詳細が書かれているのは二次史料ばかり。福島正則については、当時の所在が議論の焦点の一つでもある。

rdm********さん

編集あり2018/12/1407:34:07

福島正則の言動は、たしかにきっかけとなりました。ですが、命をかけてキッタ、ハッタして家運を開いてきた情緒的な武闘派と統治理論を推進する合理的な文治派は、お互いに相入れない心理的対立が根底にあったと思います。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる