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龍造寺隆信の首の受け取りを龍造寺家が拒否したのは何故ですか??

big********さん

2018/12/1608:33:38

龍造寺隆信の首の受け取りを龍造寺家が拒否したのは何故ですか??

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ベストアンサーに選ばれた回答

das********さん

2018/12/2007:32:09

戦って奪い返すからそれまで丁重に保管しておけ、という旨をまず龍造寺の宿将である鍋島信生は島津家に通達しました。
龍造寺家は沖田畷のあと、肥後への再侵攻を計画はしたようですが、それが不可能になる事態が発生します。

それが大友家の筑後侵攻です。大友家を迎撃する為に政家は大友軍の倍の兵を起こして久留米に陣取りますが、大友家の戸次道雪・高橋紹雲の両将に敗北します。
島津家と敵対し続けながら大友家とも同時に戦闘している状況での敗北で龍造寺家は窮地に立たされます。

その頃、秋月種実から龍造寺政家に対して島津家と和睦してはどうか、という提案があり、政家は種実を通じて島津家に和睦を申し込んでほぼ龍造寺の降伏という条件で島津龍造寺間の和睦が成立します。

島津に降伏したといっても筑後に居座り続ける戸次・高橋の両将の問題は龍造寺の責任問題なので対応に追われますが、戸次道雪の死亡によって大友軍は筑後から引き上げます。

この後、島津勢力による大友家への総攻撃が始まり龍造寺家も高橋紹雲の討伐戦(岩屋城の戦い)には参加しましたが、以前から鍋島直茂が誼を通じていた豊臣秀吉の要請もあって、岩屋城の戦いの直後に政家は島津義久に対して宣戦布告しました。

ここでやっと隆信戦死後に計画されていた島津家に対する雪辱戦が実行に移され隆信の首が埋葬されていた肥後の高瀬のあたりまでをすぐさま占領しています。

隆信の母である慶誾などが「不運の首にようは無し」と言ったという話もあり、外交上弱みを見せられないと事もあるでしょうが、結論として龍造寺家は自力で隆信の首は取り返したかった、という事だったのだと思います。

質問した人からのコメント

2018/12/21 21:51:21

なるほど!
わかりやすい解説ありがとうございます!!

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