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千利休は秀吉になぜ殺されなければ ならなかったのでしょうか? ふたりに何か...

dlk********さん

2018/12/2209:21:06

千利休は秀吉になぜ殺されなければ
ならなかったのでしょうか?

ふたりに何かあるのでしょうか?

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kir********さん

2018/12/2209:30:39

こんにちは。

あれだけ信用していた利休に切腹を・・・
その件に関しては、
諸説あるようです。

が、多分、
権力を得た者は、
下の者の裏切り(画策していなくても)を恐れる・・・
これが、真実のように私は思います。

下、参考にしてください。
https://pleasure-bit.com/2048.html

では・・・・・

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ベストアンサー以外の回答

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gpx********さん

2018/12/2210:09:46

文教大学の中村修也教授(日本茶道史)は、著書の中で利休は切腹していない(つまり秀吉から死罪にされていない)と述べています。

中村氏によれば、利休切腹の根拠となっている『千利休由緒書』は利休の死から六十年以上後になって成立したもので、内容にも間違いが多く、史料批判(史料の価値を調べ、検討すること)に耐えられないものとのことです。
また、その他の利休切腹に関するものも全て二次史料であり、一次史料では利休の切腹は確認できないとのことです。

例えば、

・「利休のことであるが、曲事(くせごと)があり、逐電した」(勧修寺晴豊の日記)
・「宗易は逐電したとのこと」(西洞院時慶の日記)
・「宗易が(中略)追放になっていたが、行方が知れなくなった」(伊達成実の日記)

など、当時の記録には「逐電」(素早く逃げうせること)や「行方不明」とだけ書かれているものが散見され、切腹したとの記述は無いとのことです。

ちなみに、利休生存の根拠として、

①文禄元年(1592)に、秀吉が九州で利休の茶を飲んだと書いた手紙があること

②同年、秀吉が利休に伏見城の設計をさせると書いた手紙があること

③利休の高弟である細川忠興が、千道安(利休の息子)に豊前国に三百石の領地を与えたとの記録があるが、道安の本拠地は泉州堺であり、実は利休に与えたものではないかと考えられること

が挙げられています。

中村氏は、石田三成ら奉行衆が利休のことを快く思っておらず、彼らの不満を抑えられなくなった秀吉が「利休を切腹させたことにして豊臣政権から追放した」というのが実際のところではないか、と述べています。

また、中村氏は「追放後の利休の消息は不明だが、細川家と交流があったのは間違いない」とも述べています。

ant********さん

2018/12/2210:09:39

同性愛でしょう?

ejn********さん

2018/12/2209:27:39

なんか殺されてはいないらしいです。

伝言ゲームのように噂話が流れそれを書き留めた貴族の日記から切腹させられたとなってしまったようです。

実際は利休の像が大衆の前で首を切られたとか。

NHKの番組でやってました。

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