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関ヶ原 平塚為広(?)が 山内一豊の家臣に討たれた と書いてあったのですが 山内...

宇喜多秀家さん

2019/1/616:17:26

関ヶ原
平塚為広(?)が
山内一豊の家臣に討たれた
と書いてあったのですが
山内一豊は南宮山の対策として
いたと思います。
戦の終盤に前線に出てきたのですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

tan********さん

2019/1/623:19:44

平塚因幡守のことを以前調べたことがあるので、物のついでにお答えします。長めになるので失礼します。


「平塚因幡守為広を小川祐忠の家臣が討ち取った」

この家臣の名前は、樫井正信 通称は太兵衛、内蔵丞
和泉国の樫井の出身で、
関ヶ原合戦のときには小川祐忠に仕えていた。30歳。
小川隊は裏切って大谷吉継勢を攻撃し、
その時に平塚因幡を討ち取ったという。
小川家が改易された後、山内一豊に千二百石で召出される。

それが
「平塚因幡為広を山内一豊の家臣が討ち取った」と誤ってしまう。
つまり「山内一豊の家臣が討ち取った」と記載されているのは、
後世の作り話の文献になります。


また「平塚因幡為広を樫井太兵衛が討ち取った」というのも、
確認する一次資料がありません。
裏切った小川祐忠の家臣が討ち取った、というのは有り得ますが。
同じように小早川秀秋の家臣が討ち取ったという話も、有り得ます。
これもまた一次資料がありません

この証拠ないという点、
あまりにあっけなく勝負がついたという点、
まったく見せ場がなかったという点、
この三つが後の世で創作軍記物がどんどん出てくる結果となるのです。

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九月晦日付伊達政宗書状
「家康方は山中に布陣する石田方を無二にきりかかって押し崩し、
大谷刑部、戸田武蔵、島津又七郎、平塚因幡、
そのほか先手衆をことごとく討ち取り」

短時間で平塚因幡が討ち取られたと家康公は認識しております。
伊達政宗へ言っているのだから嘘はついてません。
関ヶ原に布陣ではなく、山中に布陣です。
関ヶ原にいたのは大谷勢だけです。

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島津家家臣・神戸久五郎覚書
「東国衆は夜が明けると、まず一番に大谷吉継の陣に攻めかかり、大谷勢も応戦して六七度の合戦をしていたところ、上の山より小早川秀秋が逆心をして白旗を指させて横入りしていきたので、大谷吉継の人数は一人残らず討ち取られた」

従来の「関ヶ原合戦」と、事実はまったく異なり、
大谷の寄騎で先鋒の平塚は、合戦開始後、
早いうちに打ち取られたことになります。

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九月十七日付 松平家乗宛石川康通彦坂元正書状
「この尾張衆、井伊直政または福島正則殿が先手として、
他諸将がうち続き、敵の陣地へさしかかり、
小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠と祐滋の父子、
この四人が御味方になり、裏切りなされた。
そして敵は敗軍となり、追撃によりことごとく討ち取り候。
その大将は大谷吉継・島左近・島津豊久・戸田勝成・平塚為広と
他にも討ち取ったが、名が知られている者はこの分にて候。
ほかは打捨て鼻を欠いて捨てたので、誰を討ち取ったのかわからない」

報告されたことをまとめてまた報告した書なので疑問はあります。
脇坂と小川が裏切ったのであって、朽木と赤座はここにいません。
あまりにも短時間で決着がついたほどなので、
死体から鼻だけ切り取ってうち捨てた、というところは本当でしょう。

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太田和泉守記
「小川祐滋に櫻井多兵衛という者あり、
平塚為広と組み合い散々に斬り戦い、平塚為広を突き伏せ首を取る。
名誉ある高名手柄であった」

このあたりになると、嘘が入り始めています。

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軍記物語?抜粋
『さては関ヶ原、小早川秀秋の寝返りにより西軍総崩れの中、
大谷吉継隊に属した平塚因幡守為広は頑として退かず、
吉継と最後の詠歌を取り交わすと、逃げる味方を尻目に敵の大軍の中に
突入した。平塚隊は火を吹くように戦ったが郎党皆討死し、
残ったのは為広一人。少しも恐れず退かず、
高名な大薙刀を水車と振り回し薙ぎ通る。
斬って落とされる者その数知れず。このため件の大軍進みかね、
為広の周りを開けて通る始末。
ここに小早川に呼応し寝返った小川祐忠家臣、樫井太兵衛が現る。
十文字の槍を高く掲げ
「天魔鬼神の平塚も、樫井が槍は受け止められぬぞ!」
と高らかに叫び突き掛る。為広これを見てうち笑い
「優しき樫井の心底か、最後の暇を取らせてやろうぞ!」と、
件の薙刀を取り直し、樫井の槍をはじき落としてやろうと
力任せに打ち込んだが、為広の運も尽きたる。
樫井すかさず飛び入り突き倒し、終にその首を取る。
これを見ていた山内一豊は「心利きたる早業、広大の高名」と激賞し、
後で徳川家康にもこれを語り、家康もまたこれを賞した。
「平塚の武勇、義心、彼の家をこのまま絶えさせてはなるまい。」
そして為広の嫡男左馬助を召し出し、徳川の家臣とした。
後にその家は頼宣に付けられ紀州へと移った、との事である』

これで物語化が完成です。史実のかけらもありません。
大衆は史実よりもこういう感動話が好きなのです。娯楽です。

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軍記物語?抜粋
『平塚為広が、
「名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」
との辞世を書いた。
これを自分でとった首に付け大谷吉継に送った。
大谷吉継はこれに、
「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
と返歌したが、すでに平塚は小川祐忠の兵に討たれていたという』

ここまでくれば、やりすぎでしょう。
辞世の句を創作した作者のセンスには脱帽しますね。

質問した人からのコメント

2019/1/13 10:09:15

詳しくありがとうございます!

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