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関ヶ原の戦いで、西軍の首脳たちは伊達政宗も味方になってくれると期待していたの...

kok********さん

2019/1/1322:35:19

関ヶ原の戦いで、西軍の首脳たちは伊達政宗も味方になってくれると期待していたのでしょうか?

関ヶ原の戦いの西軍で、特に戦意が高かったのは大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘であり、関ヶ原にはいなかった上杉や真田も同様に戦意旺盛で、総大将の毛利輝元も最初は戦う気満々だったとされます。
彼らの共通点として、いずれも石田三成とのつながりや恩恵を受けているように思えます。小西は朝鮮出兵で三成に庇ってもらっており、島津家は一枚板ではなかったですが、義弘は最初から西軍に味方するつもりでいて、当初東軍に参加しようとして断られたというのは関ヶ原敗北後の作り話です。真田や上杉も島津と同じく取次としての三成の世話になっています。西軍が形成できたのは、三成が諸将のつなぎ役になっていたためだといえるでしょうね。

ここで思うのは、本当は伊達政宗も西軍に入るものと思われていたのではないかということです。伊達政宗は取次役を浅野長政から三成に自ら指名して変更してもらっています。政宗は三成に恩があり、それゆえ西軍首脳は政宗も西軍に加わってくれる、あるいは寝返ってくれると思っていたのではないでしょうか?
もし政宗も上杉と同様西軍についていれば、上杉は背後を気にすることなく関東に攻め入ることができて、家康は関東から動くことができず徳川包囲網が完成し、戦いは西軍の勝利になっていたのではないでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

kan********さん

2019/1/1911:20:25

伊達政宗が西軍につくのではないかという期待が西軍にあったことは、7月29日、8月1日の段階で三奉行が真田昌幸に「最上・伊達は本人はもとより家老も皆大坂に妻子を置いているし、下国の際にどんなことがあっても秀頼様に忠節を尽くすよう話しておいた」と書き送っていることから分かります。石田三成の取次としての立場が西軍形勢に影響したというのはその通りでしょう。

上杉景勝の戦略は9月3日付直江兼続条書に明らかです。直江は本庄繁長に対して「公儀(秀頼を推戴する西軍)さえよければ」伊達との和睦を進めるよう命じ、自らは最上対応に移ります。上杉は伊達政宗・最上義光本人あるいは家老数人に兵を率いさせて関東進出に従わせようとしています。実際に上杉と伊達は停戦に入っていて、最上から援軍を求められてもすぐに返事はできず、留守政景を呼び出して相談するなど慎重に上杉と破談して戦うべきかどうか見極めようとしています。上杉の軍事行動を西軍とは連動しないものと見なしたり、伊達は絶対に徳川につくということはありません。

ただ、タイミングにもよりますが、9月15日が関ヶ原での西軍大敗なので、上杉が最上伊達ともに関東へ侵攻しても、上方の動向を見極めたい伊達・最上がどこまで本気を出すかは分からず、大きな戦果を挙げる前に上方が東軍に掌握されて結局は降伏することになるのではないでしょうか。

質問した人からのコメント

2019/1/20 19:35:28

回答ありがとうございます。
伊達政宗も西軍につく可能性は十分にあったでしょうね。よく西軍は悲壮な覚悟で挙兵したと扱われることがありますが、実際は十分な勝機があったから挙兵したのでしょう。ただし遠方の方は思うように動いてくれなかったのかもしれませんね。

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ama********さん

2019/1/1911:40:17

伊達に限らず、徳川以外の全員が味方になってくれることを期待していたと思います。

f27********さん

2019/1/1517:41:51

ふつうに考えて伊達は徳川方でしょうね
そもそも最初に三成が家康を糾弾しようとした「無断縁組」の中には、政宗の娘五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約も含まれています
家康にだけでなく、伊達にも喧嘩を売ったに等しいことです
秀次事件に連座して、伊達も処罰を受けそうになったことももあります
三成は秀次の処分とは関係ないという説もありますが、実際に秀吉の意を受けて事件を処理したのは三成らであり、連座仕掛けた武将は三成を恨んでたでしょう
とは言っても政宗は義理や恨みだけで動く単純な人物ではありません
条件次第では味方になる可能性もあるにはあります
ですが、西軍側には伊達とは対立関係にある上杉と明確にはしてませんが佐竹もいます
それらがいるなら真っ平ごめんと思うでしょう
それも呑み込んで味方するとしても、伊達がもっとも欲しがっているのはその時点では上杉領である父祖の地伊達郡や米沢とその上杉の本拠である会津です
仮に味方にするなら、上杉にそれを割譲させるくらいしないと無理でしょうね
しかし西軍首脳の状況認識の悪さは目を覆いたくなるものです三成にうらみのある小早川も味方に付くとおもっていたようですし、福島正則も味方につけようとしてました
「豊臣家の為、秀頼君の為」と言えば、恩讐は超えて味方するに違いない、思ってたとすれば、ずいぶん傲慢だし、そもそも伊達など豊臣にはなんの恩など感じてないです

ohx********さん

2019/1/1508:11:35

野心家の伊達政宗が恩義で動くとはとても思えませんが、もし、そうなれば、佐竹も西軍に味方し、江戸に徳川包囲網が出来るでしょうね。
そうなれば、豊臣系東軍大名も動揺するでしょう。
しかし、伊達を釣るのは、西軍が必ず勝つと思わせる優勢さを見せ付ける事と、多額の恩賞の約束だけだと思います。

pea********さん

2019/1/1507:53:14

>関ヶ原の戦いで、西軍の首脳たちは伊達政宗も味方になってくれると期待していたのでしょうか?

答えはNoだと思います。

確かに伊達政宗は秀次事件に連座しかけるなど豊臣色が強い大名でした。

そこで、家康は太閤薨去の後、政宗にプロポーズし五郎八姫を、息子の忠輝にもらいうけます。

現代でもそうですが、女は現金です。スペック重視です。伊達家中は特に女中を中心に一気に徳川カラーに染まったはずです。

西軍首脳は、正直政宗を仮想敵国とみなしていたと考えるのが自然です。

ただ、政宗も西軍の一揆をあおるなど前田利家の言葉を借りれば「若者に似合わぬ内股膏薬」の側面を見せます。

二股、恩賞(金)。全く女々しいですね。

石田三成、日本一の男・宇喜多秀家らとは少し性格が違います。

nad********さん

2019/1/1412:17:14

思ってもいません。
そもそも上杉は西軍ではなく、中立の軍。
最上、堀に対して侵攻をしてる軍です。
三成と兼続は繋がっていたは創作です。
上杉は越後を取り返し、周りの領土を支配しようと企んだのです。
伊達は単独では上杉に対抗できる力はありません。
なので徳川が来るのを待っていましたが、三成が挙兵したため領内の防衛に努めざるおえなかったのです。
逆に上杉に従うといっても、確かに上杉単体の力は強かったですが、先々のことを考えれば付くメリットは薄いです。
政宗の考えでは三成と家康の戦いが長引いて、最上が滅んでから考えようとしていたと思います。
まだ伊達には南部、相馬、堀がいますから。
それに状況次第では佐竹、結城も動いてくれる可能性はあるので上杉につくメリットはだいぶ少ないと思います。
では政宗が上杉についたら、景勝は関東攻めをしたのか?
しません。
越後、東北支配を目指します。
その後、徐々に北関東を支配するでしょう。
そもそも上杉が西軍という考えがおかしいと思います。
上杉は秀吉が死んだことで、ある意味単独で天下を狙ったと考えていいでしょう。
上杉にはそれだけの力と兵士、武将がいましたし。

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