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江戸幕府の徳川御三家をはじめ親藩は幕政に関与しない仕組みになっていましたが、...

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ID非公開さん

2019/1/2609:42:22

江戸幕府の徳川御三家をはじめ親藩は幕政に関与しない仕組みになっていましたが、それはいつどのように成立したルールなのでしょうか?

戦国時代は一門の家臣も共同体制で政治運営や戦を行っ

ていたのではと思います。

他家(藩)も幕府のように一門は藩政に関与しない体制でしたか?(藩主一門の家老が多いイメージはありますが)

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lok********さん

2019/1/2620:34:12

親藩、親族が政治に関わるときは後見(うしろみ)になる必要があります。これは幕閣の推薦承認がなくてはなれませんし、なれば同時に将軍の地位の後継者でもあります。

幕政に関与しないわけではないです。

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lit********さん

2019/1/2613:39:00

〉有名な人物では、知恵伊豆と呼ばれた家光の時代の老中、松平信綱や、
寛政改革を主導した松平定信、また会津藩祖の保科正之も

これは完全な間違いですね。

十八松平
などとも呼ばれる松平氏

家康と同族
つまり同じ祖先を持つ一族なんですが
親藩でなく譜代として扱われました。

信綱はその十八松平の一つ
長沢松平家に養子に入ったんです。

定信についても
吉宗の孫として田安徳川家に生まれたものの
十八松平の一つ
久松松平家の一つの家に養子に入り
譜代大名として老中になっています。

保科正之についても
秀忠の庶子として生まれたものの保科氏に養子に出され
親藩=徳川一門としての扱い、松平姓を名乗ることを固辞しています。

その後正之の後を継いだ正容の代に松平姓を名乗り徳川一門の扱いを受けるようになっています。

保科正之であって松平正之ではないんです。


長くなりましたがご質問に戻ります。

一族が家の重職に就くかどうかは家ごとによって違います。

さてご質問に対してですが
本来家政を司る重職は家臣が就くのが基本で代々要職を務める家の者がその職を務めます。

家を継がない庶子は
本家から財産分与されて新たな家=分家を立て
石高上、また序列上では代々重職を務める家臣より上位の扱いを受けるものの
家政には参加しないのが基本です。

これは一つには
庶子、分家が要職を占めることによって
特に重職を務めてきた家臣との分裂、対立を防ぐシステムだったと考えられると思います。

また有力な分家が政治権力を持つことで
本家と対立する存在となることを防ぐことにもなります。

実際に一族、分家を要職に就けた足利将軍家は
鎌倉公方家と激しく対立したり
管領を務めた一族である斯波氏に本家当主=将軍のクビをすげ替えられたりしました。

ところが
代を重ねると庶子に分家を立てさせることが困難になり
庶子に重職の家を養子として継がせ
重職として家政に参加させることもしばしば見られるようになります。

tam********さん

2019/1/2612:05:10

江戸幕府は家康の思想を守る事を貫いた体制で、家康がこの体制を組みました。実際、徳川の名前と葵御紋の使用を許されているのは御三家だけなので、最初から跡継ぎが絶えた時の補助機能として構想されていたようです。実際に本家筋がいなくなって、3人が御三家から将軍になっています。

家康の支配体制の特徴は、徳川政権は徳川家本家と譜代衆₍要は本家の家来₎のみが行い、幕府内では全ての権力に同格のものを置き、相互に監視させて特定の権力者を作り出さないという原則が貫かれています。これは、豊臣政権が外様衆にもろくも突き崩されたのを見た家康が考えた解決策だったんでしょうね。この観点から見て、親藩は徳川本家の外であり、政治にかかわらせれば本家の対抗勢力になりうるとして外していたんでしょうね。実際、親戚間でのお家騒動は江戸期に各大名で頻発していますし、格付けを誤解させない意味で機能したように思います。

なお、江戸時代は封建制度なので各大名家は自分のやり方で政治体制を決めていましたが、こんな非効率な体制は組んでいなかったと思います。そもそも、幕府のように人材が無尽蔵にいるわけでもなく、先代の御老公が権力をにぎるケースも普通なので、一門が参政するのは普通だったのかと思います。

戦国期と江戸期でこの辺の政治手法はそれほど変わったわけではないと思います。変わったとすれば、藩としてゴタゴタすれば御家取りつぶしまであるという状況の方で、殿様は何もしない方が良いというのが江戸期の風潮だったので、ご一門衆も同様に何もしない人が多かったのかもしれませんね。

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jun********さん

2019/1/2611:07:17

御三家や越前松平家など、特別な家格の親藩は、
幕政に直接関与しない習わしでしたが、
一般の松平姓の親藩は、老中や若年寄に多数就任しています。

有名な人物では、知恵伊豆と呼ばれた家光の時代の老中、松平信綱や、
寛政改革を主導した松平定信、また会津藩祖の保科正之も、
二代将軍秀忠の庶子ですが、四代将軍家綱を補佐しています。

ですから、御三家・越前家のみが例外だっただけで、
その理由は、広大な領地を有するから、権力を与えては、
将軍家を脅かしかねないという配慮です。

pio********さん

2019/1/2609:55:54

古今東西、権力のトップは名目上のナンバー2をできるだけ権力から遠ざけようとするものだと思う。
ナンバー2も出過ぎると粛正されるのが分かっているので、出しゃばらないようにする。

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