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信長公記を読んだ人に質問します。 織田信長は足利義昭を担いで14代将軍にし...

awa********さん

2019/2/2118:49:34

信長公記を読んだ人に質問します。

織田信長は足利義昭を担いで14代将軍にしようとしました。しかし、三好三人衆も足利義栄(義昭のいとこ)を担いで14代将軍にしようとしました。

その頃、松永久秀は三好三人衆と対立、何度も戦っています。東大寺の大仏殿を焼いた合戦もありました。そこで久秀は、織田信長と手を結んだそうです。

■質問)信長公記には「そのへんの下り」は書かれていませんか?

教科書などでは、信長と義昭が上洛すると、慌てた久秀は降伏した・・・となっています。

■アホやひやかしの回答はいりません。まじめな回答をお待ちしております。

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ベストアンサーに選ばれた回答

kou********さん

編集あり2019/2/2413:05:45

信長公記を改めて見てみましたが、その辺りの下りは書かれていないようです。
正に「信長と義昭が上洛すると、慌てた久秀は降伏した・・・ 」的な書きかたのように見えます。

ざっくり書きますと、
永禄11年(1568年)足利義昭を入洛させる為、信長は尾張・美濃・伊勢の軍兵で苛烈に攻め立て、近江を平定、山城・摂津の諸城を落とし、池田城の池田勝正を降伏させ人質を差し出させた。
すると、五畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)とその周囲は、信長の下知に従うようになり、芥川城に在陣した信長の元には、国内外の珍品を持って挨拶に来る者が門前市をなした。
松永久秀も「つくもかみ(唐のお茶いれ)」を進上した。
といった所です。

その前の記載は、
永禄8年(1565年)、足利義輝自害後(三好・松永軍に殺されたとの説もあるが、信長公記には自害とある)、南都一条院の義昭に、このまま興福寺を相続するのであれば、危害を加えない事を三好長慶と伝えた。

ですので、松永久秀と三好三人衆の抗争等、久秀が信長に従った経緯等は書かれていないようです。

お役に立てば幸甚です。

  • 質問者

    awa********さん

    2019/2/2417:19:43

    最近の研究で、久秀は三好三人衆に対抗するために信長・義昭に近づいた事が判ってきました。信長の書状や文献から判断すると、上洛の2年前から連携していたようです。「近々、義昭と上洛するが、久秀とは打ち合わせ済み・・・」のような書状が何通もあるそうです。大和の国人・柳生宗厳(宗矩の父)に宛てた書状にも、そのように書いています。久秀は、信長・義昭の味方であるから協力せよ、という文書です。

    「信長と義昭が上洛すると、慌てた久秀は降伏した」という歴史の常識は信長公記から出たようですね。

    たいへん参考になりました。私も、信長公記のその下りを読んでみたいと思います。

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質問した人からのコメント

2019/2/24 17:25:41

回答ありがとうございました。

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