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世界史Aについてです ビスマルク時代とヴィルヘルム2世時代の国際関係の変化って...

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ID非公開さん

2019/2/2122:49:08

世界史Aについてです
ビスマルク時代とヴィルヘルム2世時代の国際関係の変化ってなんですか?
書き方は A国とb国の関係が変わったというふうに書きます
教えてください

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pra********さん

2019/2/2122:59:32

こんばんは。
ビスマルク時代は、独伊墺三国同盟、独露墺三帝同盟(のちに三帝協商、崩壊後は独露再保障条約)を結んで、フランスを孤立させていました。(当時イギリスも反仏でした)このことにより大国間の戦争のない平和が維持されました。
ヴィルヘルム2世はドイツの利益のためにドイツ帝国主義を拡大したがり、ビスマルクが罷免し、独露再保障条約を破棄し、新航路政策の名の下に杜撰な外交のもと対外進出を繰り返したので、多くの国との対立が激化しました。
その結果、ヴィルヘルム時代には露仏同盟、英仏協商、フランスによるイタリア中立化による三国同盟無効化、英露協商と、反対にドイツが孤立させられました。
この構造がWWIの際も続き、英・仏・露・セルビアの協商国と、独・墺・ブルガリア・オスマン帝国の連合国との間の戦いに繋がることになります(イタリアは途中で連合→協商に)。

  • pra********さん

    2019/2/2123:02:25

    補足です。ビスマルクとヴィルヘルム1世がドイツ帝国を作ったのは、普仏戦争勝利時のことで、嫌味にもヴェルサイユ宮殿で帝位就任しました。それゆえ当時のフランスは普仏戦争で負けた恨みを引きずっていて、どうにかプロイセン→ドイツに復讐したがっていたのです。そのため火種となっていたフランスを孤立させて開戦させないことはヨーロッパの平和につながりました。

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non********さん

2019/2/2217:22:07

ビスマルクの外交姿勢は、基本的にプロイセン(ドイツではなくプロイセン)が革命や戦争に巻き込まれない体制作りをする事にありました。

当時発は資産家たちによる「自由主義革命」が主流で、統一する前のドイツでも、そんな「自由主義」を標榜する王族の国家がたくさんありました。

ビスマルク、この事に酷く懸念を覚えており、最終的にはこの「自由主義」ではなく、当時のドイツ人たちの中に燻っていた「民族主義」を、戦争を利用して煽る事で、ドイツを統一する、という方法を選び、見事「ビスマルク憲法」の下で全ドイツを統一する事に成功しました。

そして、ドイツ統一の為、民族主義を高揚させる為に利用したのが「普仏戦争」です。

ビスマルクからすれば、ナポレオン3世を倒し、フランスを帝政から解放した時点で戦争を終わらせようとしたのですが、予想外にナポレオン3世の後を担った共和政府がプロイセン軍に戦争を挑んできたため、止むを得ず戦争を継続する事になりました。

ビスマルクの目的は、普仏戦争に勝利し、ドイツを統一した後も変わらず一緒で、プロイセンから革命や戦争の機運を一掃する事にありました。

当時のドイツは、西をフランス、東をロシアに挟まれていましたので、当時のドイツにとって最悪のシナリオはフランスとロシアが同盟関係を結んでドイツを挟撃する事。

これを徹底的に排除する為、ビスマルクがとった政策が「フランスを孤立化させる為の政策」です。

既に何人かの方が記されていますが、ドイツは普仏戦争でフランスにしてした事で、フランスから恨みを買っていましたから、フランスと同盟関係を築く事は厳しい。

そこで、ビスマルクはフランス以外の国、特にロシアや南のオーストリアとの同盟関係を築く事に固執しました。

例外としてオーストリアの更に何本に位置するバルカン半島を巡って、ロシアとトルコの間で「露土戦争」こそ勃発するものの、ビスマルクがドイツ帝国の首相であった間、ヨーロッパでは戦争が起きる事はありませんでした。

この様な均衡関係を「ビスマルク体制」と言います。

ビスマルクが使えた皇帝ヴィルヘルム1世は、そんなビスマルクの事を信頼し、ビスマルクの描いた通りに政治は行われたわけですが、ヴィルヘルム1世さん孫、ヴィルヘルム2世はそんなヴィルヘルム1世の事を、内心苦々しく思っていました。

自分が皇帝になったら、ビスマルクの言いなりになるんじゃなく、自分が考えた政治をやってやるぞ、と思っていたわけです。

ヴィルヘルム2世が皇帝になった後、ヴィルヘルム2世はビスマルクではなく、他の政治家たちの声が耳に入る事が多くなり、ビスマルクはやがて首相の座を降り、政治の表舞台から立ち去ってしまいます。

ビスマルクは、フランスと交戦状態に陥らない様、ロシアやオーストリアと同盟関係を築いたわけですが、実はそのロシアとオーストリア。「バルカン半年」に対する立場を巡って、お互いに対立する関係にありました。

ドイツからしてみれば、元々オーストリアは同じドイツ人国家であり、兄弟の様な関係性にある国です。

ヴィルヘルム2世は、なぜビスマルクがロシアとの同盟関係を大切にしていたのか、ということを全く考慮せず、ロシアよりもオーストリアとの関係性を優先し、更新期限の訪れたロシアとの条約を更新せず、ロシアとの同盟関係を解消します。

この事でビスマルクが恐れた通り、ロシアはフランスとの間で同盟関係を築き、やがてドイツはヨーロッパ社会の中で孤立していく事になります。

ビスマルクは自国が戦争に巻き込まれない事を第一の目的に、「フランスを孤立化」させる政策をとったのですが、ヴィルヘルム2世の治世下では逆にドイツ自身が孤立化する事となり、やがて第一次世界大戦へと突入する事となりました。

wak********さん

2019/2/2214:40:51

ドイツがオーストリアに対する配慮からロシアとの関係を弱め(再保障条約の更新をやめた)、ためにロシアはフランスとの同盟に進んだ。この動きが一番大きい影響があったというべき。

zen********さん

2019/2/2214:00:41

日本史・世界史の元予備校講師です。

世界史Aというダイジェスト版歴史なので簡単に解答しましょう。

ビスマルクは普仏戦争でフランスに勝利して、何とベルサイユ宮殿でドイツ皇帝の帝冠式をあげました。
これは例えるなら、日本の皇居で中国の皇帝の即位式が行われたようなものです。
フランス人の心象悪いですよね。

しかも、ビスマルクは多額の賠償金をフランスに課した上に、アルザス・ロレーヌという領土もドイツに割譲させたので、

「いつか、フランスはドイツに仕返しをして来るに違いない!」

と考えました。
このためフランスが他のヨーロッパ周辺国と同盟したりすることのないよう、フランスの孤立化をビスマルクは画策しました。
ビスマルク外交といいます。
特にフランスがロシアと同盟関係を結ぶとドイツは東西から挟まれる形になるので、とりわけフランスとロシアの同盟には神経を尖らせていました。

ところが・・・・・・

「はぁ? フランスがロシアと結ぶことが恐ろしい?」
「いつまで、そんな臆病なこと言ってんの!? ドイツは強国ですよ!」

ビスマルクの心配を一蹴したのがドイツ皇帝ヴィルヘルム2世です。

ということで、まとめますと

普仏戦争の報復を恐れたビスマルクは特にフランスがロシアと同盟することを警戒して、独露再保障条約などを結んで露仏の接近をさせないようにしていたが(ビスマルク外交)、皇帝ヴィルヘルム2世の親政になるとそうしたことは無視されるようになり、1894年に露仏同盟が成立するようになった。


ビスマルクによって外交的にフランスが孤立していたところを、皇帝ヴィルヘルム2世の治世になってフランスがロシアと同盟するように変化した、ということです。

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