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本能寺の変の時、織田信孝はなぜ 光秀を単独で討たなかったのでしょうか? 不思...

chu********さん

2019/2/2522:35:59

本能寺の変の時、織田信孝はなぜ
光秀を単独で討たなかったのでしょうか?
不思議です

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one********さん

2019/2/2608:51:19

knz********さんの回答に書かれているとおり、織田信孝は四国征伐の総大将として約14,000の兵を率いて四国への渡海を控えて岸和田付近にいました。

そして、この時の信孝の兵は殆どが兄・信雄から借りた兵だったのです。

「本能寺の変」を聞き、四国征伐の兵は四散しました。

「山崎の戦い」時点で信孝の兵はいくら残っていたのでしょうね!

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knz********さん

2019/2/2523:37:23

織田信孝は四国の長宗我部攻撃のため、本能寺の変当日に渡海予定でした。いわば四国方面軍の総大将の役割でした。しかし、この方面軍は今回組織されたばかりで方面軍としての実戦経験がありませんでした。しかも、この時の信孝の所領は小さく10万石もないと推定されています。従って、1万を超える兵力の内自身の兵は少数でした。そうすれば、他の武将配下の兵にしてみれば、信孝の将才は未知ですから、信長横死の混乱した情勢では、副将として付けられた織田家家老丹羽長秀も皆を纏めることが出来なかったのですから、信孝の統制下から離れるのは当然です。これにより多くの兵が逃亡して、兵力が少なくなり、万を超す明智勢と単独で正面から戦うことは不可能となったのです。決して信孝に将才がなかったわけではないことは信長が四国方面軍総大将に起用したことで分かります。本方面軍が新編ではなく方面軍としての戦争経験があったなら別の結果となったでしょう。

zez********さん

2019/2/2522:40:03

何故も何も、集めた手勢が信長横死の報をきいて逃げ散ってしまったために何もできなかっただけのことですが。
ここいらへんが彼の将帥としての器量の限界で、故に秀吉に主導権を持っていっていかれてしまったということです。

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