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弾左衛門家は実際にはどれぐらいの財力を持っていたのでしょうか。上級旗本の格式...

shi********さん

2019/3/1819:00:03

弾左衛門家は実際にはどれぐらいの財力を持っていたのでしょうか。上級旗本の格式で生活をし、格式1万石、財力5万石とも書かれています。別の文献には3千石ともあります。また、弾左衛門の妻女

たちが上野の花見に行く際にはその豪華さは両家の人と見間違うほどであったという記事があります。呉服屋のお得意様は大奥の女性たちと穢多の女性たちだったという記事を見たことがあるのですが。ただ、弾左衛門が行列を組んで大名行列のように移動する際には、通常の大名であれば槍を立てて歩くが、弾左衛門家は槍を横にして歩いたため、一般庶民でもすぐに弾左衛門家であることがわかったといいますし、弾左衛門家の行列には庶民は挨拶しなかったという記事を読んだことがありますが本当にそうだったのでしょうか?不確かなもので申し訳ありません。。

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sp7********さん

2019/3/2010:49:49

私も関係ないことはないので、少しは実情が分かります。
弾左衛門家が東日本の穢多非人の頂点にいて、絶大な権力と財力を持ち、優雅な暮らしをしていたことは歴史的事実です。
大名並みという表現も嘘ではありません。幕末の浅草の絵図面を見たらすぐわかります。
それでいて、身分は百姓町人にも劣るというのが、現代ではきわめてわかりにくい部分でしょうが、江戸時代というのはそうやって階層を分断して、分割統治をするという政策をとっていたのだから、仕方ありません。

そもそも穢多非人が乞食やホームレスの集まりだという認識が間違っているのです。
大部分はそうかもしれませんが、特に関西では牛馬の死体を処理する職業として一種の特権を持っている特殊公務員?のような存在ですから、穢多村の名主はほとんどが資産家(ウチの先祖を含めて)。
しかし、百姓町人との通婚は禁止。
寺も別、墓地も別、戒名すらそれとわかるようにつける。
要するに、同じ地域に住んでいながら、まったく別の社会を形成せよと指示されているわけ。
弾左衛門家も同じで、一見華美な服装でも、髷が違うとか、旗が違うなど、誰が見ても穢多の格好をしていて、大名家と間違うことはなかったはずです。
ですから平伏して通過を待つなんてことはありえません。

  • 質問者

    shi********さん

    2019/3/2014:26:56

    ご回答ありがとうございます‼やはり実際はそうだったのですね!回答者さまのお家も資産家だったんですね!我が家も被差別部落ですが、明治から田畑数ヘクタールを所有し奉公人を1人雇っていました。近所の被差別部落のご家庭は、明治時代から十数ヘクタールの田畑を所有して、明治時代から大正時代にかけて村会議員や村長を輩出してる家もたくさんあります。祖母の女学校時代の友達のお宅などは戦前から部落外の貧しい農民の娘さんを女中として雇ってたといいます。もちろん彼女の家も部落ですが、どのような経緯で部落外の娘さん方が女中として奉公していたのか不思議ではあります。そのお友達のお父様は戦前から社長兼村会議員をされておられましたし、雨が降ったら女中さんが学校に傘を持ってお迎えにきていたといいますから裕福だったと思われます。なので、みんなが被差別部落は貧しいと言っている意味が理解できなかったんですよね。勉強になりました!

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