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世の中には、言葉の間違った使い方が蔓延することがあります。 例えば、「ら抜...

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ID非公開さん

2019/3/1808:11:53

世の中には、言葉の間違った使い方が蔓延することがあります。

例えば、「ら抜き言葉」など。

このような、言葉の間違った使い方の蔓延について、「日本語の乱れだ、けしからん」とか「間

違った日本語を使うべきではない、正しい日本語を使うべきだ」などと言って批判する人がいます。

しかし、それが使われ始めた当初は「間違った使い方」とされている使い方でも、その使い方が世の中に広まり多くの人が使うようになって一般的になってくると、最終的には、正式な語法の方が実情に合わされて改正され、その使い方が「正しい使い方」と認められるようになります。
これは、言葉に関する普遍的な真理です。

それでは、言葉の間違った使い方を見かけたからといって、その事を「日本語の乱れだ、けしからん」とか「間違った日本語を使うべきではない、正しい日本語を使うべきだ」などと言って批判するのはおかしいのではないですか?

なぜならば、その使い方が登場した時には「間違った使い方だからよくない」などと言って批判していたのに、後に正式な語法の方が実情に合わされて改正されその使い方が「正しい使い方」と認められるようになると途端にその使い方を「正しい使い方」と言って認めるようになるのでは、態度が矛盾しており一貫性が無いからです。

当初その使い方を「間違った使い方だからよくない」と言って批判していたのなら、たとえ後に正式な語法の方が改正されても、その改正自体が「間違った改正」であるとして認めないべきなのです。
もっともそうしたら、現代日本において、自分だけは古語を使わなければならなくなりますが。

以上が私の意見ですが、皆さんはどう思われますか?

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kei********さん

2019/3/1809:33:20

仰る通りです.これも本来なら「仰せらるる通りにてござありまをす」と言わないと極端な省略後語でよろしくないと怒られそうですものね.昔の人に.

ただ、言葉の自然の変化は歴史の流れと同じです.これを止めようとする人もいるし、流れに乗って突っ走ろうとする人もいる.どちらが正しいかと言ってもそれを判定することは出来ない.色々な人がいるというのが世の中である.

昔、イギリスでも英語の改革運動と言うのが起きたことがあるようです.周知の通り、ドイツ語は16世紀ぐらいになってはじめて書法が出来始めたので、發音と綴り字がほぼ一致し、英語のように同じ綴りの発音が語によって違うということがほとんどない.

しかし11世紀ぐらいから表記法が出来始めたイングランドでは、もともとアンゲルンやザクセンなどドイツ系の言葉が主流だったが、そのあとに異質なノルマンのフランス語などが流入し、口語が大きく変化(日本も10世紀ぐらいにこの問題に直面した)、15世紀ぐらいになると表記と発音のズレが極大に達し、もはや綴りを発音に合わせて替えることも不可能な状態に達した.われわれも one の発音がなぜワンなのか戸惑ってしまう.そこで敢えてラテン語で文章を書くようなことまで行われた.

他方、日本でも6世紀ぐらいから漢語の影響で日本語の文法や発音が著しく影響を受け、平安時代になるとその表記にも大きなずれが生じ初める.例えば「京」は最初は百済からもたらされる「きゃう」と音読みし、やがて遣唐使の影響で「けい」と訓み、訓読では「みやこ」など.他方.「今日」を意味する和語の「けふ」は「けう」、そして京も今日も「きょう」に近い発音になってしまう.また「顏」を意味する「かほ」も「かお」に近い発音になり、「かを」と表記する例まで出て来る.

そのため、イングランドと同じように、いわゆる歴史的仮名遣いとして固定化する動きが始まり、書法の混乱は一応避けるようになった・・・のだが、庶民まで文字を書くのが一般化する江戸時代になると、「かへる」を「かゑる」と古めかしく書いたり.「かをり」を「かほり」と書くなどの誤りが日常化する.

それをさらにかしくさせたのが戦後の国語改革であり、原則的に表記と発音を一致させるとしながら、助詞の「は」はそのままにするなどの中途半端な例外を多く残した.その結果、「僕わ・・・」「テキトー」などの表記を生み出し、他方ではそういう表記の変化を公に抑止する根拠を自ら放棄してしまったと言える.表記の乱れは永久に続くしかないことになり、現代人の書く文章は百年後には極めて珍奇な表記に見えるようになる、

以上を要約すると、言葉や表記の自然の変化は歴史の流れと同じで、全く放任すべきでもないし、また逆に禁圧すべきでもない.大人が然るべき機会に自ら望ましい国語を指導すべきであると同時に、それでも自然に変わるものは仕方がないとあきらめる他ないのである、われわれ自身も百年前の国語からは大きく逸脱しているのだから.

しかし少なくとも国の機関である文科省や内閣府が国民の国語についてガイドラインのようなものを設定するのはおこがましいと言うべきである.あるべき国語については必ずしも一致した意見があるわけではなく、結局はときどきの審議委員などの多数決で決まることになり、その委員の構成も必ずしも公正とは言えず、ガイドラインとは言いながら教育機関やメディアが従う結果、事実上強要されることになるからである.

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質問した人からのコメント

2019/3/24 20:10:07

皆さん回答ありがとうございます!

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tir********さん

2019/3/2301:14:57

言葉と言うのは流動する生き物です。ただ、激烈な変化には付いて行けないだけです。

因みに「ら抜き」は、方言が標準化したものです。

tom********さん

2019/3/2110:24:22

なんだか難しそうな話ですねぇ笑
僕は言葉の専門家でもなんでもないので説得力のあることは何一ついえませんが、貴方の意見はごもっともだと思います。

たしかに言葉は移り変わるものです。当初は「正しくない」とされた用法でも、それを使う人が多くなれば、つまり市民権さえ得たらそれは「正しい」日本語とみなされます。最初は暗黙の了解のうちに。もっと時代が過ぎれば辞書にも載って正真正銘「正しい」日本語になります。今で言うと全然に肯定をつけるのとか助長を悪い意味に使うとかですかね。一昔前はいろいろ批判されましたが、みんなが使えばみんなの日本語となります。言葉の流れは誰にも変えられません。

「正しい日本語」と言いましたが、もう少し掘り下げてみましょうか。「正しい」と一口にいっても、どの程度の基準をもって正しいとするかによって意味が変わってきます。たとえば貴方の質問の中にあった、「~であると認めないべきなのです」も厳密に言うと正しくありません。「~べき」の前は否定ではなく肯定になるからです。本来なら「認めるべきではないのです」が正解になります。でもそれでも言いたいことの意味はちゃんと伝わりますし、それが間違いだと気付く人もあまりいません。貴方の言うように、話者間でコミュニケーションの伝達ができれば多少文法がズレても問題ないのです。

でも一方では、文法的に「正しい」は極めようとすればキリがありません。小説家でもよく本来とは全く違う言葉の使い回しをすることがありますが、あれに「正しさ」なんて普通求めませんし、そうすれば間違いだらけということになります。

そもそも「正しい」なんて誰が決めるのでしょう??
考えてみれば、おかしくないですか?今こうして話している言葉も、遥か遠い昔の先人から脈々と受け継がれてきた言葉の歴史があって、その流れの延長線上にたまたま私たちがいるだけで、何百年後には私たちの子孫は今とは全く違う言葉を話しているかもしれません。人間社会が成立してさえいれば、そこにある言葉は人間が作り、変化させているのです。しょせん人間の勝手なんです。

これだけの人口がいるんだから、新しい言葉の用法に順応する人もいれば批判する人も当然いる。それだけのことです。それを短いスパンで見れば「言葉の乱れ」ということになるし、言葉の移ろいも加味し全体的な視点で捉えると「単なる言葉の変化のひとつ」に過ぎなくなる、たったそれだけのことです。

でもそうなると、「乱れた日本語」という名目で批判されるあらゆる種の批判は、すべてその一言で片付けられてしまいます。でも批判する人からしたら、それを言われたらお終いなんですよ。というかそういうことじゃなくて、今、この目の前にある「誤った」日本語が目障りなんです。僕も「全然大丈夫」には未だ拒否反応があるので、たぶんそんな気持ちなんだろうなと思います。

心配しなくたって、目鯨たてて乱れた日本語だのあーだこーだ言う人は減っていきます。僕も当初はそうでしたがだんだん疲れてきました。別に自分がその言葉さえ使わなけりゃいいんだと思うようになりました。

まぁ言葉というものはこんな簡単に片付けられるものじゃありません。何せ人間が文明を発展させている時分から存在したものですから、形態も在り方もなにもかも複雑に分化して、ここまで混沌としていると何が正しいとか間違ってるとか分かりません。何を基準に?何と比較して?何を根拠に?

かなり長くなりましたが、結論としては貴方の意見は僕は納得できます。ただし、あまりにも極論ですし、現実性に欠けます。言葉の変化を受け入れている人が殆どなので、別にそういった人たちのことを気にする必要はないでしょう。

na2********さん

2019/3/1921:37:15

一般的にはおっしゃる通りです。
「している→してる」や
「十分(じっぷん→じゅっぷん)」は、
すんなり受け入れられています。

「ら抜き」が目の敵にされるのは、
「『ら抜き』は何がなんでも間違い」という特殊な文法規則を自称標準語話者の方が持っているからでしょう。

dok********さん

2019/3/1919:44:41

ご指摘は、ごもっともです。

ただ、重要な問題として、そのような日本語の言葉問題を扱うことを職業としている人がたくさんいますし、そのような職業界では「なにが正しいのか」を定めないと、職業自体が成り立たないのです。

現代は、建前上で「言文一致」ですが、日常の言葉や会話を文字に起こしたとき、さて、日本語での活用規則に従っているか、はたまた、その話す言葉自体が辞典に載る言葉かは、保証されません。
しかし、職業として日本語を扱う人は、それをそのままに受け取るわけにはいきません。そのため、その職業界で「なにが正しいか」の議論をして、「正しい」と認められた時に、言葉が進化したと認められるルールなのです。

hon********さん

2019/3/1915:29:52

質問者さんは何か勘違いをしているように思います。

つまり、言葉に普遍性はありませんが、その時代毎に”規範的な使い方”というものがあって、それに逸脱していれば、『誤用』の烙印を押されても仕方がないのです。何故ならば、言葉は言語コミュニケーションのツールであり、正確さが求められるため、どうしても『規範性』というものが必要となってくるからです。

例えば、五段活用動詞の『可能動詞』ですが、これが発生した当時は、現代の『ラ抜き言葉』のように”口語的、俗語的な”扱い方をされていました。

しかしながら、現代は、可能動詞の方が、正式な可能表現となり、「~れる」を可能の意味で使うと、こちらの方が”方言的、俗語的な”扱い方をされるようになっています。

なお、「ラ抜き言葉」は、現在はまだ、”口語的、俗語的な”扱いを受けていますが、これは、室町時代に始まった”可能形の分離”の一環であり、合理的な変化ですから、この流れは止められないでしょう。

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