日蓮正宗(阿部・早瀨宗門)の人々に尋ねる。 血脈と戒壇御本尊を信じていれば多少の謗法は許されるのだろうか?

日蓮正宗(阿部・早瀨宗門)の人々に尋ねる。 血脈と戒壇御本尊を信じていれば多少の謗法は許されるのだろうか?

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正宗の場合「謗法厳戒」は建前に過ぎません。 >血脈と戒壇御本尊を信じていれば多少の謗法は許されるのだろうか? 教団トップの貫主自体が犯しまくっていますので信徒に対しては「多少」ぐらいは強く言えないところでしょう。 事例① 日蓮正宗第17世日精上人は「像造読誦」の謗法を犯しています。 事例② 明治27年横浜在留のアメリカ人に大石寺の古器物を見せて拝観料二円を貰っていました。(『法王』第55号) 事例③ 明治37年の日露開戦に際して、時の法主・日応上人は「……義戦を起こし給ふ」等々と、率先して戦争促進の「訓諭」(2月15日付)を出したり、「皇威宣揚征露戰勝祈祷會」などを行いました。 事例④ 昭和10年「富士有志親睦道話會」の226名の人々に親睦会の会場を提供し、御開扉の後、酒宴を設けたり(『法王』第55号)、日布上人が宗教学者の姉崎博士や国柱会の山川智応、長瀧智大らに御開扉をして、「仏祖三宝も御満悦のことゝ存ずる」と挨拶したり(『大日蓮』昭和10年3月号)、お金さえもらえば謗法の者に対する御開扉さえ何とも思っていなかったようです。 事例⑤ 昭和12年の末寺の機関誌に、御本尊を写真に撮り出征兵士のお守りとして配った記事が載っています。 この配布写真は戒壇の大御本尊を書写したものでなく、末寺秘蔵の日蓮大聖人御真筆御本尊を「謹冩」したものです。 また、当時二円の供養があれば、信徒、非信徒を問わずこの写真を授与していたとのことです。 さらに東京の法道院では御本尊1万幅を印刷し、軍資金出費を“公募”して協力者に配った事実があります。 このように、戦時にあって御本尊の写真や書写した御本尊を“御守り”として無分別に配ることは、日蓮正宗では、第二次世界大戦中に限らず行われていたようです。 時の法主が書いた御本尊の写し(御形木)を配るようになったのも66世の日達上人からで、それ以前は日寛上人の御形木もありましたし、また、法道院は日応上人、妙光寺では日布上人というように、末寺ごとで違った御形木を下付していた時代もあったとのことです。 事例⑥ 日顕法主は、禅宗の寺に墓を建て自ら法要も行っています。 墓石はスウェーデン直輸入の「ファイングレー」という高級な石で、550万円もかけたといいます。表には日顕氏の染筆による題目が刻まれ、裏には「平成元年七月十七日 為先祖代々菩提 建立之 日顕 花押」と、日顕が先祖代々の菩提のために、之を建立した者であると明確に刻まれています。 事例⑦ 戦時中宗門が神札を受けた過去があります。 「あれはたしかに謗法になるね」(北海道・直唱寺、杉山雄伝住職) 事例⑧ 「研修」と称して大石寺の僧侶たちが日蓮宗の寺を周り、賽銭を投げ入れ合掌・礼拝も行っています。 事例⑨ 静岡県富士宮市内にある三宮神社の祭礼に、大石寺の檀家総代である井出氏が参列し、紙垂(しで)の付いた縄で囲われた“神の聖域”の中で、先頭切って拝礼・合掌しています。その後、直会(なおらい:供え物の神酒や神饌を下げて酒食する宴)も実施されています。 井出氏は大石寺の総代でありながら、同市内の曽我神社の氏子総代も兼務していました。曽我神社の例大祭では、氏子総代として、宮司の真後ろに座って、神体を拝んでいました。また、市民に神札の購入を奨励していました。 事例⑩ 大石寺周辺をはじめ各地の檀家で、本尊と並べて仏像や稲荷を拝む状況があります。 事例⑪ 先代の 日顕氏が大石寺近隣の八幡宮に御本尊を書写して奉納しています。 「『シアトル』『芸者豪遊』は 謗法じゃなくって“仏のお慈悲”っつうの!」

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その他の回答(1件)

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許されないでしょう でも、こんな言葉があります 泥を被る覚悟 実際、私がそうですね 私は外道であるクトゥルフと通じ知識を得ています それは謗法です でもクトゥルフは言います 「私は過去世で法華経を信仰したが、この世界の法則で生きていないために救われる事はなかった」と言います だから私に教える知識も法華経が含まれています クトゥルフは法華経で救われる事はなかったと言いますが 逆に言えば、この世界で生まれた末法の人々は法華経で救われると言うことです 私は教学はさっぱりですが経験を通じて法華経が正しい事を確信しています でも、それは謗法になってしまうんですけどね