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秀吉は、いつ、何人かの戦国大名の土地を減封したんですか?

yyb********さん

2019/4/1506:50:55

秀吉は、いつ、何人かの戦国大名の土地を減封したんですか?

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cel********さん

2019/4/1710:24:35

学者が思い切り根性を出せば、秀吉から領地を減らされた(つまり、減封された)大名のリストは作れるのでしょう。が、そんな事をしている学者を私は知りません。

何故あなたがそれを知りたいのか、それがわかりませんが、どうしても知りたければ、ここで質問していても答はたぶんない、と思いますよ。

図書館に行って、出来るだけ厚い「歴史人名辞典」みたいなものをひたすら読みまくって、秀吉から領地を減らされた大名が見つかったら、その名前と時期を書き込む、みたいな事をやってもまだそのリストは充分ではないかも知れません。そもそも「歴史人名辞典」が、秀吉が大名の領地を減らした事の全てをカバーしている保証はありませんからね…

江戸時代初期に減封・改易された大名のリストは、ある程度詳しい本なら載っていますが、それは(もう学校で江戸時代に入っていたら、既に習っているかも知れませんが)、徳川幕府の大名統制政策の転換の一面として重要視されているからです。が、秀吉の減封にはそういった歴史上の重要性が無いので、少なくとも私はリストを載せた本を見た記憶がないです。(絶対に無いとは言いませんが…)

それから、私はあなたが新中二だと思って回答しています。だから、細かい事に拘るよりも、学校の先生や教科書や参考書に書いている事をそのまま文字通りの意味で、あなたが理解できるように回答しているつもりです。
細かい事を言えば、正しくない、それはウソだ、と言う人はいるかもしれない、とは思いながら…

ただ…

>減封・改易は江戸時代からの言葉です、信長、秀吉の時代には存在していません。

というのはさすがにちょっとどうかと思いますけどね…

現在の、歴史用語としての「減封」、「改易」は、江戸時代以前から使ってよい言葉として明らかに使われていると思います。例えば、

~~

朝日日本歴史人物事典の解説
丹羽長重
没年:寛永14.閏3.6(1637.4.30)
生年:元亀2(1571)
安土桃山・江戸初期の武将。長秀の子。母は織田信長の養女(姪)。幼名鍋。通称五郎左衛門。天正13(1585)年,父の遺領越前国(福井県)の大部分と加賀国(石川県)能美郡を継いだが,家臣の軍律違反により同年,同15年と羽柴(豊臣)秀吉から相次いで所領を没収され,若狭,次いで加賀国松任4万石に減封された。

~~

では、織田信長の重臣丹羽長秀の息子、長重が家臣の軍律違反などで領地を減らされた事を『減封』と呼んでいます。

また、↓は秋田県大仙市の公式Webにある、市内にある楢岡城の説明パンフレットですが…
https://www.city.daisen.akita.jp/docs/2017100400058/files/nakaokajy...

「奥州仕置」…小田原攻めの後に秀吉が行った、東北地方の大名に対する領土の再配置。改易や減封などの処分を小田原攻めの際の功績から決めた。これにより秀吉が天下統一を果たしたとされる。

と書いています。
奥州仕置とは、秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後に、小田原攻めに参加しなかった東北地方の大名を改易(領地を全部奪う)、遅れて参加した伊達政宗を減封した事を言います。

また、「減封」はまだしも、「改易」という言葉は、元々は「ある役職の担当者を変える事」を指す言葉で、それが鎌倉時代に御家人の地頭の地位を奪う事を指す言葉などとして使われ、それが武士の権力が「領地」と呼べるぐらいになっていた江戸時代には、「領地を全部取り上げる」という意味になっただけで…

~~

大辞林 第三版の解説
かいえき【改易】
〔改め易かえる意〕
現任者を解職して新たな者を任ずること。中世以降、刑罰の一種と見なされるようになり、守護職・地頭職などの「職」の解任と所領の没収をいった。江戸時代には武士の所領や家禄・屋敷を没収し、士籍から除くことをいう。蟄居ちつきよより重く切腹よりは軽い。

~~

それから…

秀吉の改易・減封は『敵の領土を奪い取ったとき』に起きた、というのもどうかと思いますけどね…。秀吉に既に従っていた大名(丹羽長重はその例)、あるいは、従ってはいなくても「敵」とまでは言えない大名(伊達政宗はその例)も、たくさん含みますのでね…

例えば、↑に挙げた丹羽長重は、自分の家臣が秀吉の敵に密かに通じたのではないかという『疑い』で一回、秀吉の島津攻めの時にそれに参加した丹羽長重が連れてきた家臣が乱暴な行いをした事で一回、減封されています。伊達政宗の減封は、秀吉の小田原攻めの時に直ぐに参加しなかったからです。

逆に言えば、秀吉に敵対しなくても、その程度の事で減封ぐらいはしょっちゅうなので、当然天下統一前も後も置きました。

例えば、朝日日本歴史人物事典の蒲生秀行の解説を引用すると、

~~

蒲生秀行

没年:慶長17.5.14(1612.6.13)
生年:天正11(1583)
江戸初期の大名。会津若松城(福島県)城主。氏郷の長子,母は織田信長の娘。近江国(滋賀県)生まれ。幼名鶴千代。初め秀隆と名乗った。文禄4(1595)年父の遺領会津92万石を継ぎ,徳川家康や前田利家の後見を受ける。飛騨守,侍従。慶長3(1598)年重臣間の争いにより会津を没収され,下野国(栃木県)宇都宮12万石に減転封された。

~~

とあります。秀吉の最晩年、つまり天下統一後の1598年に、領地を減らされた上で別のところに領地を与えられる、「減封」+「転封」=「減転封」された、という説明ですね。

そんな感じでそれほど珍しくも無い話なので、『いつ・何人減封されたか』というのが調べるのにはエラク手間が掛かる、が、そんな手間を掛けてリストを作ったからと言って、秀吉はしょっちゅう&やり続けていだから、徳川幕府初期の様に「大名統制政策の転換」がわかるわけでもない、そういう事です。

あなたが、何故、そんな事を知りたいのかわかりませんが、学者だって滅多にそんなリストに興味を持たないでしょうから、中二の人が気にする理由って無いと思うんですけど、なんでそんな事に関心があるのでしょうかね…

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qqm********さん

2019/4/1512:52:27

減封・改易は江戸時代からの言葉です、信長、秀吉の時代には存在していません。

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