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「極楽浄土では苦しみがない代わりに、喜びもない」のですか?

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ID非公開さん

2019/4/2013:02:01

「極楽浄土では苦しみがない代わりに、喜びもない」のですか?

「量ることができない世界、光しかない、まぶしすぎて光すら認識できない」

上記はひろさちや著「知識ゼロからの南無阿弥陀仏」という本のP67にありました。
しかし同じ本のP83には、こうありました。

「阿弥陀経に書かれた極楽浄土の世界」として
「極楽に暮らす衆生には、苦しみがなく、楽しみだけがあるので極楽と呼ばれる」とし、
あらゆるものが宝石でできているという、きらびやかな世界が語られています。

どちらの極楽浄土観が正しい、または一般的なのでしょうか?
宗派によって違うなど、わかりましたら教えてください。
(お釈迦様は死後の世界など、わからないことについては答えていない、という回答は、今回はなしにしてください。)

補足個人的には、死後は「無」であってほしいと思います。
たとえ楽しかない世界だと言われても、
楽しみたい、喜びたいという欲には苦が伴うと思うからです。
完全なる無になれるなら、それこそ救いだと感じるのですが…

それはともかく、色々なご意見をお伺いできればと思います。

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qwe********さん

2019/4/2014:32:11

極楽浄土で苦しみがないと同時に喜びもない、というのは相対的な意味においてじゃないですかね。
苦しみがなければ、その終焉として訪れる喜びはないですよね。
それは質問者さんが補足で述べておられる通り「楽しみたい、喜びたいという欲には苦が伴うと思う」「完全なる無になれるなら、それこそ救い」ということだと思います。その「救い」を喜びと考える時、相対的な苦楽は存在しないでしょうが、絶対的な喜びはそこにあるということもできるのではないでしょうか。

「あらゆるものが宝石でできているという、きらびやかな世界」とは、現世との比較においていえることではないかと思います。
不足から不満が生じ欲となるのなら、不足のない世界は欲の消滅に大いに貢献するでしょう。
何一つ不足のない境地に至るという意味においては「完全なる無」は「完全なる有」でもあるかもしれません。
何もないからこそ満たされるということは、全てがあるから満たされる心境と同じですよね。問題は環境ではなく、結果としてどういう境地に至るかであるかと思います。
不足によって生じる欲の消滅は、完全なる無によっても適いますが、完全なる有でも実現できます。
宗教において大切なのは、結論に至るための状況ではなく、結論そのものである境地です。神でさえその実在の証明は重要ではありません。無であれ有であれ、人の心を安寧に導くか否かが重要なのだと考えるとわかりやすいのかなと個人的には思います。

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    質問者

    ID非公開さん

    2019/4/2019:20:54

    ご回答ありがとうございます!

    >何一つ不足のない境地に至るという意味においては「完全なる無」は「完全なる有」でもあるかもしれません。

    との言葉にはっとし、勇気づけられました。
    まだ仏教の教えに理解が追いつかず、勉強中ですが、とてもためになるお考えを頂きありがとうございます。

    なにかを信じ、心の安寧を得られる日がくればよいと願っています。

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質問した人からのコメント

2019/4/21 00:42:22

皆さまたくさんのご回答を頂き、誠にありがとうございます。

どの方のお話も示唆に富みとても勉強になりましたが、何が真理かはわからないので、自分の中で一番腑に落ちた回答をベストアンサーに選ばせて頂きます。

これからも仏教についてコツコツ学んでいければと思います。
どうもありがとうございました!

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nao********さん

2019/4/2018:16:22

こんばんは!
なっちゃんです!
なっちゃんが、極楽浄土について回答します!

私たちが住む地球は、娑婆(しゃば)世界に含まれます。娑婆は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という世界に分かれています。地獄というのは、極悪の環境のこと。餓鬼とは、飢えていても欲しいものが手に入らない欲求不満の環境のこと。畜生とは、智慧がなく、向上心のない境地のことで、この地獄・餓鬼・畜生を三悪といいます。怒り・強欲・無智なことです。極楽浄土には、地獄・餓鬼・畜生がなく、人と神が成仏を目指して修行をしています。苦がないので極楽といいます。

たとえれば、極楽は冷暖房が整い、不良などいない優秀な学校のようなものです。苦しみに耐えることはなく、よい環境で学ぶことができます。一方、娑婆は、悪い環境で、不良たちに囲まれて学んでいるようなものです。善い環境で楽に修行するか、悪い環境で苦しみに耐えて修行するかの違いです。苦に耐えて、成長することを選びたいのなら娑婆がいいでしょう。

娑婆にしろ、極楽にしろ、修行の場であることには変わりはありません。極楽は、ただ楽にくらせるところではありません。


以上、なっちゃんでした。

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dri********さん

2019/4/2016:29:41

あなたは正しいことを言っていると思う。

欲には苦が伴う。
「無」であってほしい。

そういうことなら、死後の無ではなくて、生前に無を得ればいいと思う。
つまり、肉体が死ぬのでもない、他人が死ぬのでもない、あなたが死ねばいい。
あなたがいなくなる。それはある意味死であり、肉体の死以上に死である。

浄土でも天国でも、それは魅力的に描写され、そして魅力的であることがある人にとっては重要である。
だけど、あなたはその点とても正しいように見える。その楽が苦を生むから。

そうした浄土や天国が描写されたときに、問題は、誰がどう確認できるのか、という点である。
誰かが確認した。もし、お釈迦様以来誰一人確認したものがないという教えがあるとすれば、それは魔の教えだろう。そのような浄土はブラックホールだ。行ったもので帰ってきたものはいない。
「この扉を開けて向こう側に行くがいい。そこは楽しいところだ。」
それは、むしろピノキオの行った「ゆかいな島」で、一人一人は向こう側でロバになっているに違いない。

涅槃は無だと釈迦牟尼仏は言ったことだろう。
そこには計るよすががない。
楽しいとか苦しいということはない。
恐らく多くの人はお釈迦様に対して疑問を持っただろう。「あんなに苦労して、行きつく先は無なのですか?」
しかし、その無は、普通の人生よりもエネルギーにあふれ、百万の本を読むより知識にあふれている。

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zvs********さん

2019/4/2015:05:42

苦しみや悩みがない世界ですから

それだけで幸せでしょ

それに衆生を救う役目も担ってますから

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oga********さん

2019/4/2013:45:02

便秘になれば、極楽浄土で苦しみます。

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曹源慧能さん

2019/4/2013:29:59

苦しみというのは思い通りに行かないことで、浄土はみな思い通りになる世界です。しかし、この世の楽しみは浄土にはありません。浄土にあるのは法楽です。

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