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日本の一般家庭における、仏教的な先祖供養についての質問です。

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ID非公開さん

2019/5/1009:08:09

日本の一般家庭における、仏教的な先祖供養についての質問です。

下記の条件のご供養は問題があるでしょうか?
また、問題があれば、どのようにそれぞれのご先祖さま方の供養ができるでしょうか?
よろしくご回答願います。

私の父(次男坊)は、地方の実家から上京して、家庭を持ちました。
母は長女で、母方の家はその弟が継いでいますが、その弟に子供はなく、近い将来、母方の先祖供養は誰もできなくなってしまいます。
父母ともに信仰はなく、私の家族の入るお墓もありません。
ご縁いただき、長男の私は、
日蓮宗のお寺さまや関係者各位と親交があり、また自身も日蓮宗の信仰をしています。

出来得るなら、“当家”の先祖供養と、母方の先祖供養とを一緒の仏壇に各々の位牌を配して行いたいのですが、その行いは適切なのでしょうか?

父の実家は、代々、浄土真宗で、母方は浄土宗です。

本家の司るべきであろう先祖供養と、他家の先祖供養とを縁つづきの分家、あるいは、別家の日蓮宗徒の私が、日蓮宗式の供養の仕方で、上記を行っても差し障りないのでしょうか?
…ゆくゆくは、日蓮宗のお寺さまに上記につきお世話になりたく思います。

よろしくお願いいたします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

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ID非公開さん

2019/5/1016:27:01

一般論ではなく、お上人に尋ねた方が良いです。
日蓮宗の坊さんは、うるさい人もいますから。

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wou********さん

2019/5/1319:21:40

葬儀とは、故人の名を借りて、残った人たちの為に行うものです。つまり、亡くなられた方の宗教ではなく、残った方の宗教が大事、ということです。これが、仏教の考え方です。
その意味では、you********さんが言われる事は正しいと思います(ちょっと、冷たい感じはしますが・・・)。従って、残されて葬儀を行う方の考えが、一番大事となります。つまり、実家の人の宗教ではなく、喪主の宗教によって、行われるべきだという事になります。
ここが大事なところです。
喪主が質問者さんであれば、質問者さんのお考えで、執り行うものなのです。

you********さん

2019/5/1318:37:55

釈尊も親鸞聖人も「死人の後始末」は、一度もされたことは有りません。

お経の始まりは
「如是我聞」…是くの如く我聞けり。
「我聞如是」…我是くの如く聞けり。

のいずれかです。お経はお弟子が後々、書き記したのです。
生きた大衆に説かれたものがお経となってこんにち遺されているのです。

こんにちは仏教が死人の教えとなっています。
葬式、法事、遺骨供養で極楽へ往けるのなら金持ちしか極楽へ往けない
ことになります。

全くもって迷信だと釈尊、その教えを守られた親鸞聖人も同じことを
仰っています。



浄土真宗の親鸞聖人は、

「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても
申したることいまだ候わず」(歎異抄第五章)
【意訳】
親鸞は、亡き父母(先祖)の追善供養のために、念仏一遍、
いまだかって称えたことがない。


葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、
世の常識になっているようです。

インドでも、釈迦の弟子が、「死人のまわりで有難い経文を唱えると
善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか」と尋ねています。

釈尊は、黙って小石を拾い近くの池に投げられ、沈んでいった石を
指さし、「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、
と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」 と反問されています。

石は自身の重さで沈んでいったのであり、そんなことで石が浮かぶ
はずがなかろう。

人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人が
どんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれて
います。

読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのです。
釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に「苦悩の
心田を耕す」教法だったのです。
死者のための葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったと言われて
います。

むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟を
教示なされたのが仏教でありました。

今日、それが、仏教徒を自認している人でも、葬式や法事・読経などの
儀式が、死人を幸せにすることだと当然視しているのです。
その迷信は金剛のごとしと言えましょう。

そんな渦中、
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても
申したること未だ候わず」の告白は、まさに青天の霹靂であるにちが
いありません。

ここで「孝養」とは「追善供養」であり、死んだ人を幸福にすると信じ
られている行為のことであります。

四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた聖人の、両親を憶う切なさ
は、いかばかりであっただろうか。
亡き父母は、最も忘れえぬ聖人の幻影だったでありましょう。
そんな聖人が、
「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」と
言われる。
無論これは 、念仏だけのことではありません。亡き人を幸せにしようと
する読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことです。

言い換えれば、
「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、
その他一切の仏事をしたことは、一度もない」の断言だから驚くのです。

「死者の一番のご馳走は読経だ」などと、平然と先祖供養を勧めている
僧侶や、当然のようにそれを容認している世人には、如何にも不可思議
な聖人の発言であり、“なんと非情な”と冷たく感ずる人もありましょう。

だが、誰よりも父母を慕われた聖人が、衝撃的な告白で根深い大衆の
迷妄を打破し、真の追善供養のあり方を開示されているのが、この章
なのです。

かつてした ことがないと聖人が言われる、葬式や法事を本分のように
心得ている僧侶らを嘆く、覚如上人(聖人の曽孫)の教誡を挙げておきま
しょう。

『某(それがし/親鸞)閉眼せば賀茂河に入れて魚に与うべし」と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあら
わしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ喪葬を一大事と
すべきにあらず。もっとも停止すべし」
【意訳】
「私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ」と、しばしば
親鸞聖人が仰ったのは、なぜか。それはセミの抜け殻のような肉体の
後始末よりも、永遠の魂の解決(信心決定)こそが、最も急がなければ
ならないことを教導されたものであります。
されば葬式などを大事とすべきではあるまい。やめるべきであろう。


仏教界はその意味で、今や病膏肓に入ると言えましょう。
今にして聖人のご金言を噛みしめなければ、残るは死骸の仏教のみとな
るでありましょう。

では葬儀や法要・墓参は全く無意味なのかといえば、仏法を聞いた人に
は仏恩報謝・法味愛楽、仏法を知らぬ人には仏縁ともなるでしよう。

毎年、多くの交通事故死が報じられいます。「昨年は何千人交通事故死」
ときいてもすこしもおどろかない。ただ漫然と数字を見るだけで、「死」
については、まったくマヒしていないだろうか。

忙しい忙しいと朝夕欲に振り回され、自己を凝視することがない。
そんなある日、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく時、人生を見つめる
得難い機会になることがあります。

「オレも一度は死なねばならぬ。酔生夢死ではなかろうか」
否応なしに冷厳な真実を見せつけられ、厳粛な思いにさせられます。
願わくは、単なるしきたりに終わらせず、自己の後生の一大事を感得し、
解脱を求める機縁としたいものであります。




参照:『親鸞聖人の花びら』より。

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