ここから本文です

邪馬台国の場所は 弥生時代後期の鉄器の出土ぐあいがどう見ても、邪馬台国(ヤマ...

DQとタメ年の女さん

2019/5/2510:59:00

邪馬台国の場所は
弥生時代後期の鉄器の出土ぐあいがどう見ても、邪馬台国(ヤマト国)は佐賀平野で狗奴国は熊本県だとしか、思えないんだが。

弟の中学時代の社会の副読本のデータ《弥生時代後期の鉄器の出土》

これで近畿地方にまともな勢力がいるか?

魏志倭人伝,邪馬台国,鉄器,弥生時代後期,卑弥呼,佐賀平野,畿内

閲覧数:
334
回答数:
19
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2019/5/2521:29:48

そうです。鉄器の分布が如実に語っています。
邪馬臺(台)国、または邪馬壹(壱)国は北部九州で間違いありません。
邪馬壹(壱)(ヤマイ)国の場合、卑弥呼の後継者は壱与(イヨ)となります。 イヨと言う名前も女性名としてよくある名前ですので、壹(壱)の可能性も高いと思います。

では、この場合、邪馬壹国は何処にあったのか?ですが、畿内説のヤマト説(奈良盆地周辺)は完全に除外されます。
ヤマイと言う地名ではありませんから。

北部九州の場合は八女(ヤメ)市が相当します。
この八女(ヤメ)の地名がヤマイから訛った地名と考えれば辻褄が合いますね。
ヤマイは山井か山居のような意味から来た地名でしょう。
このヤメと言う地名は随分古い地名である事が日本書紀の記述で分かります。

>日本書紀に「この地方に女神あり、その名を八女津姫(ヤマツヒメ)といい、常に山中にあり」との記述があります。

八女市には継体天皇に反乱を起こしたとされる筑紫の君磐井の岩戸山古墳があり、
この一帯は後世の磐井へと続く北部九州の覇者(磐井の先祖達)の本拠地だった所です。
また、邪馬台国(ヤマト)であっても、八女市の南隣は旧山門郡(現みやま市)ですので、北部九州説では何ら問題がありません。
この八女市の北隣が久留米市で卑弥呼の墓とも言われる祇園山古墳があります。
祇園山古墳は高速道路で一部が削り取られてその断面を見る事ができます。
グーグルマップの写真で断面を確認できますが、この一部の断面だけでも7、80mはありそうです。全体の断面では、100mは超えるでしょう。
古墳そのものは一辺が23mくらいの方墳ですが、
自然の丘陵を削除して楕円形の基盤を作っています。魏使はこの基盤全体を含めて目撃したので
径百余歩の大いなる塚を造った、と記述したのでしょう。
倭人伝は数値に誇張が多々見られますので、この直径が100m前後は径百余歩(の150m) には及びませんが、誇張としたなら径百余歩の大いなる塚、と言う記述にピッタリです。
逆に箸墓古墳は一辺280m(2百余歩)以上なので、誇張を見込めば3、4百余歩と記述されてもおかしくないでしょう。
どちらが卑弥呼の墓に相応しいか火を見るより明らかです。

また、主たる被葬者は石棺に埋葬され、方墳中央部に直葬されています。
これも有棺無槨(棺有って槨無し)の倭人伝の記述にピッタリです。
箸墓古墳だと有棺有郭となってしまいます。
さらに、祇園山古墳にはその基盤部に68体もの殉葬と見られる埋葬者があります。
中には刺し違い葬と言う明らかに殉葬の埋葬者もいます。
この68体全てが殉葬ではないかもしれないが、その内の数十体は殉葬と見て間違いないでしょう。
この数十体を例によって誇張して奴婢百余人を殉葬した、と倭人伝に記述されたと考えるとピッタリ一致します。
日本全国でこれほど倭人伝の卑弥呼の墓の記述にピッタリ合う古墳はありません。
箸墓古墳などはまるで倭人伝の記述と合いません。まったく論外です。

以下ウイキからの引用です。

古墳は高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、その基部は楕円形をなしている。
形状は方墳で、石棺は北東から南北方向に沿って古墳頂部中央にあり、内部には朱の痕跡がある。石棺はあるが槨はなく、形状、規模とも吉野ケ里遺跡の楕円状構築物の上に築造された方墳および楽浪漢墓 (阿残墓) 石巌里第9号墳に類似する。

規模・形状
編集

方墳の規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mで、標高60m(墳丘頂部) 標高55m(墳丘基準面)である。葺き石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を楕円形に整形した台地の上に存在する。

墳丘外周からは、殉葬された従者66名以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区甕棺の末期形式のものであることから、被葬者や従者は伊都国との関連が示唆される[3][4]。

墳墓は九州高速道建設のために削開されるところを、、かろうじて墳墓の約80%が遺跡として保存された[5]。

築造時期が墳墓の形状、構築、石室、周囲の甕棺の様式から三世紀中期であること、規模が一辺約23mで斜辺が32mで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪はなく66名以上の殉葬があること、そのうちの甕棺K1からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、出土品の殆どが時期的に矛盾が無いことなど多くの点で魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記載と矛盾が殆ど無い。さらに、この古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台の占地に存在することから、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の可能性がある。

以上のように祇園山古墳と箸墓古墳とを比べると、箸墓古墳は卑弥呼の墓としてまるで該当しないのが良く分かります。

結局畿内説で唯一根拠らしきものは歴博の土器付着スス焦げの炭素年代のみです 。
それによれば、箸墓古墳の周濠から出土した布留0、1式土器に付着していたスス焦げの炭素年代が24、60年代を示した、だから箸墓古墳の築造年代は24、60年代となり、卑弥呼の死亡年の247、8年にピッタリ一致する、即ち、箸墓古墳が卑弥呼の墓で間違いない!と言うものです。
しかし、その歴博の土器付着スス焦げの炭素年代は国際標準較正曲線ではなく、光谷拓実氏が開発したと言う日本産樹木の年輪年代法に基づく較正曲線によるものなのです。
つまり、歴博炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代
です。
所謂土器編年も畿内説ではこの歴博の炭素年代に基づくものなので、結局光谷拓実氏の年輪年代法を当てはめたものに過ぎません。(畿内流土器編年)
結局、畿内説の根拠らしきものはこの光谷拓実氏の年輪年代法の一本槍でしかない。

しかし、この光谷拓実氏の年輪年代法によれば、604年頃創建、670年頃全焼、その後701〜10年頃再建された法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。他にも14事例で記録と伐採年が百年古く食い違ってしまう。
つまり、この年輪年代法自体が百年古く狂っているのです。
したがって、歴博炭素年代も畿内説の土器編年も全て百年古く狂っているのです。
事実、歴博の炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代=畿内説の土器編年、(これらは全て同一の根拠=指標=光谷拓実氏の年輪年代法の繰り返し)以外のほぼ全ての指標が箸墓古墳の築造年代を4世紀前半と示しています。

いくつかの根拠=指標を示しましょう。

1、箸墓古墳より少し古いホケノ山古墳から楽浪鏡と言われる銅鏡と同じ様式の銅鏡が出土した。
この楽浪鏡は楽浪最終期土器と共伴して出土する鏡でそれ以前の土器とは共伴しない。
楽浪郡の滅亡は313年なので、楽浪最終期土器は290年代以降くらいの土器である。
即ち、ホケノ山古墳の築造年代はその後、つまり従来説の32、30年代が正しい。
すると箸墓古墳はその後、330〜50年代となり、やはり従来説が正しい。
他にもホケノ山古墳の原型ではないかと思われる徳島の萩原墳丘墓(ホケノ山より古い)からは楽浪郡の墓出土の楽浪鏡と傷の形まで一致する楽浪鏡が
出土する。
この場合、楽浪郡墓の人物は290年代〜313年代に死亡した事は確実だ。
つまり、萩原墳丘墓の人物もその同時代に死亡した、と考えて間違いない。
即ちホケノ山古墳は32、30年代築造となる。
これも動かぬ証拠である。

2、箸墓古墳ははじめて出現した巨大古墳であり、従来のホケノ山古墳などの中小古墳群とは全く一線を画する。
これははじめての巨大権力者の出現をあらわしている。
記紀によれば、ハツクニシラススメラミコトたる崇神天皇がそのはじめての巨大権力者に相当し、その活動期は4世紀前半である事は定説である。

3、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の碑文によれば、ヲワケの臣が471年に造らせたとあるが、その7代前がオホヒコとある。
この オホヒコとは崇神の伯父のオホヒコノミコトの事と思われる。
すると、崇神はヲワケの臣の6代前であり、世代にして14〜60年前に相当する。
即ち31〜30年代が崇神の活動期であり、やはり、4世紀前半で一致する。

4、箸墓古墳の周濠の底の落ち葉を含んだ固く締まった土層の中層から木製輪鎧が出土した。
302年銘のある長沙の墓から出土した騎馬俑400余体中、鎧は僅かに3体のみで、しかも片鎧。
これは大将クラスの物で威信材でもあったと思われる。 だから、高価な金属製であった為に鎧と言う字は金偏なのである。
しかし後世に、硬製鞍と両鎧がワンセットとして発明された。これにより馬上の安定感がズッと増し、馬上騎射や矛による騎馬隊の突撃や大刀による抜刀斬撃が出来るようになった。
つまり、騎馬兵の有用性が大幅に向上して、騎馬戦術の大変革をもたらしたのである。
その為、全騎馬兵に鎧が必需品となり、400体なら800もの鎧が必要なので、安価で大量入手しやすい木製輪鎧が普及した。
それは4世紀中頃以降の事で、現に、357年銘のある高句麗の墓の壁絵でも鎧は描かれていない。
また百済墓で鎧が出現するのも4世紀中頃以降である。
従って、箸墓古墳の周濠の底の土層が築造後積もったものだとして、早くて4世紀後半であって、そうすると築造年代は4世紀前半が合理的。

これらの指標はどれも炭素年代とは無関係な上に、お互いも無関係で互いに完全に独立した指標です。

それらが全て箸墓古墳の築造年代として4世紀前半を示している。

対して、畿内説の根拠は唯一歴博のスス焦げ炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代法一本槍の繰り返しのみ。
( それだと、700年代再建の法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。等々)
つまり、畿内説には根拠が存在しないのです。

  • 2019/5/2809:53:20

    鉄は錆びて無くなるから、などと泣き言を言いながら無理矢理畿内の方が鉄器が普及していたのだ!と強引にこじ付ける人物がいるが、ホントこじ付けに過ぎない。
    日本は火山性の酸性土壌だから鉄器は錆びて溶けて無くなるからだ!というが、そんなもの日本全土は何処でも条件はほぼ同じだ。むしろ九州は阿蘇山をはじめ、霧島火山帯のど真ん中の島なのだから九州の方が畿内よりもよほど火山性の土壌だ。
    だから、火山性土壌で鉄器は溶けてなくなりやすい!と言うなら、この鉄器の出土状況以上により濃密に九州に鉄器が普及していたと考えられる!と言うべきだろう。

    また、隋書を挙げて根拠としているが、その時代よりも遣唐使の派遣で日本側の事情がずっと詳しく分かった新唐書では倭王は元筑紫城に居た、と記述されている。
    (この新唐書には絶対触れないのが特徴なのだが。)

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/18件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

abo********さん

2019/5/2820:18:07

「ヤマト」イコール近畿ではありません。

古代中国人は九州島を「ヤマ」と発音していました。

古代の中国の歴史書での距離表示は信用してはダメと
現代の中国歴史家が言っています。唐書の距離を参考にすると
日本の位置はメキシコになるそうです。日本だけでなく他の国
についても距離はでたらめだと現代の中国歴史家が言っています。
ただし東西南北は正確で信用できると言っていました。

耶馬台国の東は海と倭人伝に書いてありますが、奈良の東は
陸地です。

耶馬台国の男子は顔面入れ墨をしていますが、当時、この風習が
あったのは南部中国の一部と九州の熊襲だけだったと中国の
現代の歴史学者が発言しています。

knn********さん

2019/5/2807:10:24

予想通り、鉄は錆びてなくなるなどと屁理屈を言う者が現れましたね。

国民の70%は邪馬台国畿内説ですが畿内は確実に否定できます。邪馬台国は畿内以外ならどこでも構いませんよ。

周知のとおり邪馬台国論争は決着していませんよね。
魏志倭人伝は3世紀に中国人が日本に来て見聞した報告書に基づいて記した文献です。魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国畿内説は有り得ません。魏志倭人伝があるから邪馬台国論争があるのです。
纏向が初期大和王権の本拠地であることは動かない。箸墓が大和王権成立期の始祖王の墓であることは動かない。しかし、大和王権と魏志倭人伝は無関係です。

邪馬台国畿内説の主な根拠は次の通りです。
(1) 纏向は初期大和王権の本拠地だから纏向が邪馬台国に違いない
(2) 歴博発表の炭素14年代測定結果(箸墓築造年代)
(3) 三角縁神獣鏡や土器の分布状況
(4) 纏向で見つけた建物跡(柱穴)
(5) 混一疆理歴代国都之図に日本列島が南北に長く描かれている

(1)はAが正しければBも正しいとする(妄想的)推論です。
(1)の裏づけとされる(2)~(5)は全て否定できます。

魏志倭人伝
「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶不可得詳」
「自女王国以北 特置一大率 検察諸国 ・・・ 常治伊都国」
邪馬台国畿内説では、この『自女王国以北 ~~~』を説明できない。
女王国が大和にあれば以北に在る伊都国などは山城・近江・若狭あたりになければならない。
以北を「以西」にすると遠方の対馬・壱岐・末蘆・伊都などの戸数・道里が略載できて、その手前の吉備・播磨・河内などの詳細が得られないのは理解に苦しむ。手前の国々を通過することは必須です。吉備を出雲にかえても同じことです。女王国が大和にあれば吉備や出雲は重要です。
また、以北を「以西」にすると一大率の検察範囲が山陰・山陽・四国・九州地方にまで及んで伊都国に居る一人の大率には広すぎる。当時は乗馬の習慣は無い。移動手段の整った現代でさえ検察・警察は都道府県に設置されている。
大和の「以南」は紀伊半島になる。「以東」は東海・関東になる。
つまり女王国が大和にあれば東西南北すべてが説明できない。これが邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。

魏志倭人伝
「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。畿内説では説明できません。単純な話です。
(「水行」だったら許してやるけどね)

邪馬台国と大和朝廷は別物ですから、邪馬台国畿内説は有り得ません。
「邪馬台国が大和朝廷になった」との仮説がありますが、それなら大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっているはずですがそうではありません。
魏志倭人伝には、卑弥呼の死後男王を立てたが国中は服せず次に13歳の少女壱与を立てて国中が定まったと記されています。卑弥呼や壱与の名はモモソ姫でもヤマト姫でも構いません。倭国乱⇒卑弥呼共立⇒卑弥呼の死⇒男王⇒国中不服⇒13歳の壱与と大きなイベントが連続しているのですが、記紀には何も記されていません。
日本書紀の神功紀39年・40年・43年の条の割注に魏志を引用して神功皇后を卑弥呼に擬していますが、魏志を引用するしかない事が大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっていない証拠です。邪馬台国の伝承が伝わっていれば割注ではなく本文に、その伝承をそのまま記せばよいのですから。
神功皇后が実在の人物なら卑弥呼の年代と100年ものズレがありますので、同一人物ではありません。

畿内説の根拠の1つに、倭人伝の「銅鏡百枚」を三角縁神獣鏡とする説がありますが確定ではありません。
三角縁神獣鏡は日本で約560面が出土していますが、中国での出土はありません。約560面が出土していることから(地中に埋まったままの)出土していないものを含めると1000面を超えると思われます。
中国での出土がないため三角縁神獣鏡は全て日本製とするべきですが、畿内説論者は三角縁神獣鏡は特鋳で日本製と中国製が混在していると主張しています。
三角縁神獣鏡が特鋳なら銘文に「倭国」「倭王」などがあってもよいのではありませんか。三角縁神獣鏡の銘文にあるのは中国の年号・地名、鋳造の工房・工匠、吉祥句・誤字・脱字・文意の通らぬものなどです。
近年、三角縁神獣鏡の三次元計測データからコンピュータ上で3Dモデルを生成して移動・回転・拡大・縮小等の表示が可能になりました。畿内説論者は3Dモデルを利用して鏡の微細な傷や割れなどから中国製と日本製の決定的な違いを見出そうとしていますが、見出せていません。見出せなければ、全て中国製か全て日本製にするしかありません。
倭人伝の「銅鏡百枚」を画文帯神獣鏡とする説もあります。

「大作冢 径百余歩」
箸墓古墳を卑弥呼の墓とする根拠は、魏志倭人伝に記されている7文字があるからです。
前方後円墳は倭国が強大な国であることを誇示する為のものですから、倭人達は郡使を箸墓に案内しなければ意味がありません。
卑弥呼の時代に箸墓が存在していたら、祭祀が執り行なわれていた前方部にも案内したでしょう。
当時の箸墓は葺石で覆われて輝いていたことでしょう。案内された郡使は驚きをもって箸墓を入念に視たはずです。
中国には無い、巨大で美しいデザインの前方後円墳を視たのなら詳細に記述するはずです。僅か7文字はあり得ません。箸墓古墳と卑弥呼の墓は無関係です。
「径」は冢の径ですから「円形の塚」のイメージです。
「百」は実数ではなく「多い大きい」の意味です。
箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは無理です。

箸墓古墳の築造年代を西暦240~260年ごろとする国立歴史民俗博物館の(一方的な)発表は学会で承認されている訳ではありません。
毎日新聞 2009年6月1日
「箸墓は卑弥呼の墓」(暦博年代測定 信憑性疑問も)
発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。
(新聞記事は東京都立中央図書館などの新聞縮刷版で確認できます)
従来、箸墓の築造は4世紀とされていた。箸墓の周濠から4世紀の木製の鐙(あぶみ)が出土している。鐙が周濠内に投棄された遺物なら箸墓は4世紀の築造とするべきです。
大王墓の完成後は周濠には入れない。神聖な周濠にゴミを捨てることは許されない。周濠に木製品が浮いていたら墓守(はかもり)が拾うでしょう。つまり周濠の底に埋まっていたのなら築造中しか考えられない。
桜井市纒向学研究センターでは「古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます」としているが、築造されて「暫く後に周濠に投げ込まれた」のなら墓守が拾うでしょう。「暫く後」とは10年後か20年後か多く見積もっても30年後でしょう。まさか50年後ではありませんよね。(「暫く」は短い時間のこと)
大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』223ページに『桜井市教育委員会は、「周壕内から出土した鐙は箸墓築造後30年ほどの堅く積もった堆積土の中から~」と発表している。』と書いてある。
仮に箸墓の築造を西暦240~260年とすると、30年後も40年後も3世紀で、4世紀の鐙の出土は無理です。鐙の問題もまた邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。

畿内説の考古学者は魏志倭人伝を無視しているが、考古学からも畿内説を否定できます。
wikipediaに纒向遺跡の「搬入土器の出身地割合」が示されていて割合の合計は100%になるが出身地に九州は含まれていない。もしかして九州の土器が1個や2個だから割合(%)に含まないのかな。
纏向遺跡で各地(関東~西部瀬戸内海)の土器が出土していて、その地域を支配しているのなら、九州は支配されていなかったと考えられる。九州の土器が1個や2個出土しても支配したとは言えないでしょう。支配していない伊都国への一大率の設置はできないでしょう。

畿内説の考古学者は纏向で見つけた建物跡(柱穴)を卑弥呼の宮殿と結びつける。そしてマスコミは「纏向=邪馬台国」を是認するような「卑弥呼の館か」などと報道する。そして多くの人々は「纏向=邪馬台国」を是認するのです。
纏向周辺には古代の天皇の宮が在ったのだから、いきなり卑弥呼の宮殿ではなく先ずは天皇の宮を考えるべきです。
考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈していた。

魏志倭人伝
邪馬台国(もしくは邪馬壱国)は「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」と記されています。そのため女王国は「当在会稽東治之東」と記されているのです。
現代の地図を見て魏志倭人伝はデタラメだと言うのは簡単ですが、当時の中国に現代と同様の地図などありません。
当時の中国人の地理認識なら中国で作られた、
12世紀頃の『古今華夷区域総要図』
13世紀頃の『宋拓輿地図』
14世紀頃の『東南海夷図』
などの古地図を参照するべきです。12世紀~14世紀の中国人の地理認識の変化が分かります。(ネット検索で確認できます)
これらの古地図を見れば魏志倭人伝の「当在会稽東治之東」も理解できます。つまり「当在会稽東治之東」は当時の中国人の地理認識を拠り所にしていることが分かります。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

mon********さん

2019/5/2801:15:55

むしろ、近畿は
王権の首都部で平和で安定していたんだろう。
逆に、九州は
王権中心部から離れていて
対異民族の最前線だった。
九州南部には熊襲、
九州から海北には朝鮮半島。

aki********さん

2019/5/2800:38:32

畿内説では九州まで支配下においているはずですよね。鉄器の再利用を国の中心で行っていれば他の地域でもやっているでしょうし、鉄器が錆びてなくなるのならば他の地域の鉄器もなくなっているはずですし、鉄器を埋める埋葬する習慣がなければ他の地域でも埋葬するわけがないですし、鉄器は墳墓以外からも出土しています。

隋書で言えば倭国までの道程が書かれていますが『又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭』
すごく大雑把に要約すると、竹斯国についた、その東に秦王国がある。秦王国の人は華夏と同じだから夷洲ととしたがよくわからない。また十余国行ったら海岸に至った。竹斯国より東は、いずれも倭の属国だ。
竹斯国は筑紫国の事で、東に行って海岸に至ったと言うことは九州から出てない可能性もあります。例えば畿内が倭の中心の場合、筑紫国から東は倭の属国だって書くよりは、筑紫から畿内までは、もしくは、畿内より東はって書く方が自然です。それに隋書で紹介されている山は富士山ではなく阿蘇山です。

後に書かれた新唐書も参考にすると、隋書では俀王の姓は阿毎だと書かれていますが、新唐書では『其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。』
大雑把に要約すると王の姓は阿毎で、32代全員が筑紫城に住んでいたが、神武が「天皇」を称号にして、大和州に移って統治した。

中国の歴史書を参考にすると神武東征を肯定する結果になるので九州説を裏付ける事にしかならないです。

kuw********さん

2019/5/2720:42:58

鉄は錆びてなくなってしまったり再利用可能なので、出土状況がそのまま利用状況を示しているとは限らない。

その一方、弥生時代の中期後半に出土量がピークに達した石器は、後期すなわち一世紀になると、北部九州のみならず近畿を含めた本州のほぼ全域で「基本的」に消滅する。手堀りで作業するわけがないので石器の代わりに鉄が普及していたと考えるのが自然である。
(「古代日本はこうして生まれた」都出比呂志編 角川出版 1998年「石器から鉄器へ」禰宜田佳男 66P)

したがって鉄の優位性は見られない。逆に北部九州では後期において、石包丁が残存したり、銅鏃・銅鋤先が鉄製品を補完していており鉄の普及が遅れている状況をみてとれるが、畿内ではそのようなことがない。

つまり畿内のほうが鉄の普及が進んでおり朝鮮半島から鉄を入手していたにも関わらず地理的に近い北部九州よりも畿内のほうが鉄を入手していたことになり、畿内が北部九州を政治的に支配している証拠といえる。(石油技術協会誌 第75巻 第4号平成22年7)281頁「邪馬台国最新事情」 西谷正九州大学名誉教授」



そんな間接的な証拠よりも中国の正史「隋書」には「畿内のヤマトが邪馬台国」であるとハッキリと書かれている。


古代中国においては紀元前12世紀の「殷」王朝には「史」といわれる事柄を記録する役人がいて「周」よりは「太史」と呼ばれ「秦」からは「太史寮」という天文・暦法や祭祀と国家の文書の起草や典籍・歴史を管理する役所が設置された。

つまり、代々の王朝で歴史を編纂するための文献が管理する役所があり、その文献を参考しているので信頼性が高い。


ただし、12世紀の宋王朝の時に北方民族の「金」が首都を陥落させて皇帝一族を拉致して略奪が行われるという事件があった「靖康の変」


このときに多くの歴史書・文献が失われたおかげで多くのことがわからなくなったが、「隋書」が編纂された唐の初めには多くの記録を参考にできたはずである。


であるから「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(倭の都はヤマトに置かれている、魏志に書かれている邪馬台国のことである)と断定しているのである。(「也」は文末に置かれ、断定強調を表す)

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる