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文禄・慶長の役について 豊臣秀吉がどのような経緯で朝鮮出兵にいたったのか ...

織田信長に捨てられた里芋さん

2019/6/1016:39:04

文禄・慶長の役について

豊臣秀吉がどのような経緯で朝鮮出兵にいたったのか
戦闘の経過 戦闘の終結など
文禄・慶長の役の中身を分かりやすく要約して教えてください

当然自分でも調べていますが
知恵袋の方の文章でも学びたいのでお願いします


※期限が来るまでベストアンサーは選びません

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hir********さん

2019/6/1222:09:01

(文禄の役)

文禄元年(1592)4月12日

日本軍の1番隊の小西行長・宗義智隊が釜山浦(港)に上陸。
小西・宗軍は周辺を瞬く間に攻略しながら北上しました。


5月2日夕刻~3日早朝
日本軍は首都漢城を無血占領。

6月15日
日本軍1番隊の小西・宗隊が平壌を無血占領。
小西・宗らは講和をにらんで進撃を停止。

一方、 平壌落城を知り、朝鮮国王一行らは昼夜兼行で中国の明と朝鮮との国境の町の義州まで逃亡。

また、日本軍2番隊の加藤清正・鍋島直茂隊は、途中で1番隊と別れて咸境道地方(朝鮮北東部)に進撃し朝鮮軍を撃破して北方へと駆逐して行きました。


このように日本軍は当初は快進撃を続けて、李氏朝鮮正規軍を北方へと駆逐していました。

しかし7月

その明から援軍である「祖承訓」の率いる明軍の先鋒軍5000程が朝鮮に到着。
そして祖承訓の率いる明・朝鮮軍の連合軍は平壌の小西行長軍を攻撃。
ところが連合軍はに小西軍に大敗。

これには明国も衝撃を受けたようで、今度は名将軍として誉れ高い「李如松」を大将に大軍を派遣する事を決定。
しかし当時の明国では同年の4月より「寧夏の乱」といわれる反乱が起きており、李如松もその鎮圧に派遣されていた為に朝鮮へすぐに援軍を送れない状況でした。

そこで、明側はその為に時間稼ぎとして日本側の小西行長に
「講和条約の準備の為」として休戦を締結。
これを受けて日本側も戦闘行為を停止。


そして翌、文禄2年(1593)

1月

昨年の年末には明・朝鮮国境を越えていた李如松が率いる明軍と合流した朝鮮軍との連合軍5万数千が小西行長軍5000程が守備する平壌を包囲。
小西行長が率いていた1番隊は朝鮮上陸時には18700程いたはずですが、度々の戦闘で消耗していたのと各地の占領・駐屯・病気などでこの様な小勢となっていました。
そして数日間の戦闘の末、李如松は小西行長に平壌からの退去を勧告し、小西行長軍は連合軍の追撃を受けながら命からがら敗走。

そして1/7
平壌は連合軍に奪回されたのです。


そして1月26日

平壌奪回成功の勢いに乗り漢城へと向け南下した李如松が率いる明・朝鮮の連合軍の40000と小早川隆景らの日本軍40000が漢城郊外で激突したのが
「碧蹄館の戦い」でした。
戦いは激戦の末に日本軍が勝利。
しかし日本軍には明・朝鮮の連合軍を再び北へと押し返す力はもはやありませんでした。

この情勢を受け、朝鮮半島の東北部の咸鏡道を制圧し、朝鮮の2皇子を捕虜にし、更に一時は朝鮮国境を越えてオランカイ(女真族)居住地域にまで進行した加藤清正率いる2番隊にも漢城への撤退命令が出されました。

明側にとっても「碧蹄館の戦い」の敗戦はショックした。
明軍の李如松も戦闘意欲が全く無くなり、病気と称して別の将軍と交代しての帰国を熱望する始末でした。

そして講和交渉が現実味を帯びてきました。
しかし両陣営はその交渉を有利にすべく駆け引きを行います。


3月

漢城に立て籠もる日本軍に一大事件。
漢城郊外の龍山にあった兵糧貯蔵庫が朝鮮軍に焼き払われました。
この兵糧庫には、漢城駐留軍約5万人の二か月分の兵糧の14000石が貯蔵されていた為、漢城駐留の日本軍は明軍との講和交渉の主導権を握られてしまいました。


4月18日

日本軍は講和交渉開始の条件として同意した漢城より撤退を行い、釜山方面へと全軍撤退。

そして講和交渉は動き出しました。
小西行長、石田三成らと明側の使節やり取りが始まったのです。
しかしこの時点で、秀吉の意向で日本軍は朝鮮南部の確保を目指して防御態勢に入りました。
慶尚道(釜山がある地域です)には、この時点で沿岸部に十八城が築かれていてまだ日本軍7万8千人余りが駐屯していました。


5月20日

秀吉は新たに日本軍12万4千人を増援として朝鮮に派兵。
秀吉の狙いは講和交渉を有利に進める為の攻勢でした。

6月
日本軍は釜山の西方にある晋州城を攻撃。

晋州城は釜山~漢城への補給ルートから外れていて堅城という評判もあり、当初は日本軍も手が回らずに放置。
しかし朝鮮侵攻が順調に進行した事により余裕ができた為に前年の10月に細川忠興ら20000が攻撃しましたが、権慄率いる朝鮮軍3800の防戦により攻略に失敗。
(第一次晋州城攻防戦)

その為に今回の第二次晋州城攻防戦は失敗は許されませんでした。
晋州城には最終的に金千鎰らの朝鮮軍約7000と避難民が立て籠もりました。
日本軍は4万以上(9万なんて数字も)の大軍であり、名将「権慄」も籠城を断念し入城しませんでした。
明軍も日本軍と講和交渉の締結優先の意向もあり朝鮮側の援軍要請を拒否。

そして、6月29日

黒田隊の後藤又兵衛の1番乗りにより晋州城はついに落城。
晋州城軍側は市民も含め全滅。


そしてこの戦いの後、講和交渉を有利に進めるという目的を達成した日本軍は再び朝鮮南部の慶尚道の沿岸部へと撤退。
そして次第に兵数を削減し帰国させながら講和交渉を見守る事となります。


だが
石田三成と小西行長らは明使節団と共にイカサマ外交交渉を行います。
要は日本側と明側の使節同士が共謀して、それそれの自国に
「相手国が降伏を願い出ている」
として講和交渉を進めていたのです。


しかし約3年の交渉期間を経て講和交渉は決裂。



慶長2年{1597)

7月
日本軍が再侵攻を開始。

12月22日
明の「楊鎬」「麻貴」らに率いられた明・朝鮮連合軍5万7000が
加藤清正が担当する慶尚道地方の蔚山城へ来襲。
蔚山城はまだ完成直前状態であり、特に水・食糧の備蓄が不足。
加藤清正は死をも覚悟しながら苦闘。

しかし
慶長3年{1598)

1月3日
蔚山城の加藤清正の危機を知った毛利秀元・黒田長政らの率いる1万3000の援軍が来援。
そしてこれにより明・朝鮮連合軍が大敗し漢城へと撤退。

そしてこの大敗を受けて、やがて明国から更なる援軍派兵が決定。


8月
この時点で明軍兵力は『約10万ほど』でした。
明・朝鮮連合軍は東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて南下を開始。


・「東路軍」の戦況

9月22日
東路軍」は蔚山城攻撃を開始。(第2次蔚山城の戦い)
しかし前回と違い蔚山城は防備も強化され補給も行われていました。
そして加藤清正は守備に徹しました。
その為に明・朝鮮連合軍は甚大な損害が続出。

10月初旬
明・朝鮮連合軍は撤退に追い込まれました。
(泗川の戦いでの中路軍の壊滅の報せも影響もあり。)


・「中路軍」の戦況

9月27日
「中路軍」が泗川古城を攻略。(前哨戦)
しかし島津軍の川上忠実が少勢で頑強に抵抗し、彼も重傷を負いながらも重囲を破って脱出。更に部下が明・朝鮮連合軍の食糧庫の焼き討ちに成功。
明・朝鮮連合軍は食料難から短期決戦を強いられる事になりました。

10月1日
泗川新城付近にて「中路軍」4万6000と島津義弘軍6~7000が激突。
(泗川の戦い)

少勢であるはずの島津軍が伏兵戦術などを屈指して大勝。
「中路軍」は壊滅。
「島津家記」では明・朝鮮連合軍の首級3万3700人を討ち取ったとあり。

※あまりに数が多いので誇張もあるでしょうが、まぁ明・朝鮮連合軍が壊滅的損害を受けたのは間違いないようです。


・「西路軍」の戦況

9月19日
「西路軍」は和平交渉を偽って小西行長を捕縛しようとしたが失敗。

その後、順天城は陸と海から「西路軍」の猛攻撃を受け続けます。
しかし小西軍は頑強に抵抗して「西路軍」は被害が続出。

10月3~4日頃
「泗川の戦い」における「中路軍」の壊滅が伝わったようです。

10月7日
「西路軍」は包囲を解いて撤退。

10月9日
明・朝鮮連合水軍も海上封鎖を解いて撤退。


この様に明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍の3軍がすべて敗退。
更にこれらの3路の戦いが終わった頃、日本軍には5大老の連名での朝鮮からの全軍撤退命令が伝わっていました。

そしてそれは実質的に現地の日本軍と明軍の間でそれぞれ休戦協定を結び撤退する手はずになっていました。

そして10月下旬頃
小西行長と西路軍の総司令官の明軍との間に「休戦協定」が成立。
日本軍の無血撤退の約束を取り付けていました。

しかし合流予定日の
11月15日
島津義弘、立花宗茂らが待つ合流予定地点に順天城から撤退してくるはずの小西行長らの5将がなぜかいつまでも現れませんでした。

※最終決戦地となる「露梁津」は順天と泗川のほぼ中間点で合流予定地点はその東方にありました。


実は数日前の
11月11日
明・朝鮮連合水軍は協定を破り順天城の沖合を再び封鎖。
日本軍の撤退は秀吉の死によるものだとの情報がもたらされた為でした。
特に李舜臣が強く日本軍への追撃・撤退妨害を主張。

11月16日夜
小西行長が脱出させた1艘の船が島津義弘らの下へたどり着き小西行長らの危機を伝えたのです。

一方、連合軍は東側からの順天城への救援最短ルートにあたる
「露梁津」という狭い海峡(水路)の入口へと向かいました。

11月17日
明・朝鮮連合水軍は露梁津に到着し待ち伏せ攻撃を狙いました。

一方、小西行長の危機を知った島津義弘、立花宗茂らは、急遽水軍を結成して順天城へと向かいました。
それはやはり露梁津を通過するコースでした。

そして

11月18日午前4時頃、

ここに「露梁海戦」が起こったのです。

  • hir********さん

    2019/6/1222:10:37

    ●「露梁海戦」

    奇襲を受けた形の日本軍は苦戦。
    日本軍は、明・朝鮮連合水軍に接舷して切り込むという白兵戦攻撃を行い、明・朝鮮連合水軍は激しく火炎攻撃を行うという両軍の激戦が展開。

    しかしやがて島津義弘自身も危機に陥るほどの苦戦。
    夜が明ける頃、日本軍は島津軍を殿(しんがり)として全軍撤退へと移りました。
    しかし李舜臣の朝鮮水軍はこれに追いすがりました。
    そこへ島津軍の銃砲火が激しく浴びせられ、李舜臣は戦死したと伝わります。


    さてこのように日本軍は露梁津の突破に失敗して撤退。
    この点では日本軍は「露梁海戦」に敗戦したと言えるのかも知れません。

    しかし日本軍側の上級指揮官に戦死者が無いのに比較して、明・朝鮮軍側には多数の戦死者が出ていて、両軍の戦力差も日本が半分であったとも言われており、実際には明・朝鮮軍側の辛勝、もしくは両軍の痛み分けだったとも思われます。


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2019/6/1201:07:43

そもそも朝鮮出兵は天下統一後の信長の夢でした。
そして織田家を継いだ秀吉が天下統一した後
平和になり武器商人が不景気になったのも後押しして
文禄・慶長の役をするのに至ったとどこかの
本で読んだことがあります。

不適切な内容が含まれている可能性があるため、非表示になっています。

投稿内容に関する注意

2019/6/1122:12:52

16世紀後半の東アジアでは、朝貢貿易と海禁政策を基本とする中国中心の伝統的な国際秩序が、明の国力衰退により変化しつつあった。全国を統一した秀吉は、この情勢の中で日本を中心とする新しい東アジアの国際秩序をつくることを志した。

秀吉が早くから表明していたのは、大陸出兵の方針である。秀吉は、朝鮮に対し、日本への朝貢と明への侵攻の際の先導を求めた。朝鮮がこれを拒絶すると、1592(文禄元)年、秀吉は、朝鮮に15万余りの大軍を送って侵略戦争を開始した(文禄の役)。釜山に上陸した日本軍は、各地に軍を展開し、朝鮮の都である漢城(現ソウル)を落とした。しかし、明から援軍が到着し、各地では朝鮮民衆による義兵が蜂起した。また海上では朝鮮水軍を率いる李舜臣によって劣勢となり、しだいに戦局は不利になった。

秀吉は、明との講和交渉のため休戦したが、交渉は決裂した。1597(慶長2)
年、秀吉は14万人余りの兵を送り、再び朝鮮と戦争を開始した(慶長の役)が、苦戦を強いられた。翌年、秀吉が病死すると、五大老・五奉行は全軍を撤兵させた。

前後7年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱と呼ばれ、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。また国内的には、膨大な戦費と兵力を無駄に費やした結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。朝鮮侵略は秀吉の誇大妄想によって引き起こされた面が強いが、一方では日本国内の知行地の不足を解決するための領土拡大戦争の性格ももっていた。

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